プロ野球選手・コーチ・監督・野球解説者・野球評論家・タレントとして活躍されてきた吉田義男さん。現役時代は「今牛若丸」と称され、堅実な守備で有名でした。
引退後は3度にわたって阪神タイガースの監督を務めて初の日本一に導き、その後はフランスでも監督を務めたことから「ムッシュ」と呼ばれていました。
2025年2月3日に亡くなり、通夜にはフランスのソフトボール協会会長も参列するなど、惜しまれながら見送られました。4月27日の阪神対巨人戦は吉田義男さんの追悼式として行われ、野球界に大きな悲しみを与えたことが伺えます。
今回は吉田義男さんの若い頃を振り返り、その後の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】吉田義男は若い頃イケメン!
幼少期・10代(1933年~1953年)
引用元:スポニチ
吉田義男さんは、薪炭業を営む家庭の次男として1933年に生まれました。2男3女の5人兄弟で、吉田義男さんは4人目の子供です。この年代の方は物心がつく頃には戦争が始まっていたため、吉田義男さんも幼少期の記憶は「食糧難」や「学童疎開」など、戦争にまつわるものばかりだと語っています。
野球と出会ったのはその頃でした。食べ物と同様に遊び道具も無い時代でしたが、棒切れをバットの代わりに、丸めた布をボールの代わりにして、「三角ベース」という簡易野球の1種とされる遊びをしていたそうです。
上の画像は、幼少期の吉田義男さんです。戦争があり大変な頃だったと思いますが、幼い子供の可愛さはいつの時代も変わりませんね。
引用元:日刊スポーツ
いよいよ野球に夢中になるのは、終戦の翌年の1946年4月(当時12歳)に旧制中等学校の京都市立第二商業学校に入学してからでした。
学制改革により、京都二商は1948年4月(当時14歳)に新制高等学校の京都市立西陣商業高等学校となりましたが、廃校になったため京都府立山城高等学校の併設中学校に編入しました。
その後、1949年4月(当時15歳)にお父さんを、9月(当時16歳)にお母さんを亡くしました。相次いで両親を失って野球どころではなくなり、一時は高校を中退して働くことも考えたそうですが、お兄さんが家業を継ぎ「お前は野球を続けろ」と言ってくれたのだとか。
意を決してグラウンドに戻り、ここから野球に捧げる高校生活が始まって「山城に吉田あり」と評されるほどの活躍を見せるようになりました。上の画像は、その頃のものです。
引用元:日刊スポーツ
山城高校卒業後は特待生として立命館大学に進学し、1年生からレギュラーとして活躍しますが、1年生の秋に中退して阪神タイガースに入団しました。入団のきっかけは阪神のスカウトの青木一三さんから勧誘されたことで、殺し文句は「藤村富美男さんが『君なら絶対プロでやっていける』と言っている」というものでした。
藤村富美男さんというのは日本プロ野球を代表する伝説的な強打者で、阪神タイガースの黎明期を支えた選手です。そんな方に才能を見込まれていると思ったら誰でもその気になってしまうと思いますが、実はこの話は青木さんの創作で、藤村さんは吉田義男さんのことを知らなかったそうです。
青木さんは「家業の手伝いで重い炭俵をひょいと持ち上げているのを見て、当時164cmの小さな体だがプロでやれると確信した」と語っています。藤村さんを持ち出しての殺し文句を創作するくらい、吉田義男さんに入団してほしい気持ちが強かったのではないでしょうか。

吉田義男さんは幼い頃から野球が好きだったんだね。
家族みんながそれを応援してたのかな?

お父さんからは「野球よりもっと家業の手伝いをしろ」って言われてたけど、お母さんやお兄さんは応援してくれてたみたいだよ。
特にお兄さんは、お父さんが亡くなった後に学校を辞めてまで家業を継いで吉田義男さんの夢を応援してくれてたんだって。
20代(1953年~1963年)
引用元:デイリー
吉田義男さんは1953年(当時20歳)にプロ野球の世界に飛び込みました。契約金50万円、月給3万円でした。当時と今でお金の価値が異なるため現代人にはピンと来ないかもしれませんが、大卒の初任給が9000円程度だったことを考えると破格の高給ではないかと思われます。
上の画像は、1956年(当時23歳)にドジャースの選手と握手を交わす吉田義男さんです。日米親善野球で日本が招待して対戦した時のものです。
試合の結果はお話にならないほど歯が立たず日本の惨敗でしたが、相手チームの首脳が「連れて帰りたい選手が1人だけいる。捕球、送球の速さ。フットワークもすばらしい」と言いました。
首をひねる日本人記者に、通訳が「阪神タイガースの吉田義男さんです」と答えたそうです。入団からほんの数年の頃に、アメリカでも通用するほどの能力があったというのがすごいですね!
引用元:サンスポ
阪神タイガースでは俊足巧打・好守の遊撃手として、16年間不動のレギュラーとして活躍しました。特に華麗な守備でファンを魅了し、「今牛若丸」の異名がつくほどだったのだとか。
1954年(当時21歳)には初の盗塁王を獲得し、その翌年には初のベストナインに選出され、1957年(当時24歳)にはリーグ3位の打率.297を残しました。また、このシーズンで後のジャイアント馬場さんこと巨人軍投手であった馬場正平さんとも戦っています。
1962年(当時29歳)には、15年ぶりのリーグ優勝に貢献しています。東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)との日本シリーズでは全7試合に1番打者として先発出場し、第1戦で延長10回にサヨナラ2塁打、第7戦では4安打を放つなど活躍しました。
上の画像は、観衆の大歓声に笑顔で答える吉田義男さんです。1962年10月の写真なので、当時29歳です。

1953年の大卒の初任給が1万円もいかないってことは、当時は商品や色々なサービスも相当安かったのかな?

そうだね!ハガキは5円だったし、タクシーの初乗り料金は80円だったんだって!
30代(1963年~1973年)
引用元:47NEWS
1964年(当時31歳)にはリーグ3位の打率.318を記録、生涯唯一の3割越えを果たしました。プロ野球の世界では、「打率は3割を超えると1流」とされているようです。
また、179打席連続無3振を達成するなど、チームのリーグ優勝に大きく貢献しました。同年の南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)との日本シリーズでも全7試合に1番打者として先発しますが、27打数6安打1打点とあまり活躍の場は無かったのだとか。
1967年(当時34歳)には、開幕から藤田平さんに定位置を譲り2塁手に回りました。1969年(当時36歳)はコーチを兼任し、後継である藤田さんの台頭を見届け、同年をもって現役を引退してコーチも退任しました。
引退については、「非公式に他チームからの打診もされたが、阪神以外のユニフォームを着る気になれなかった」と語っています。背番号の「23」を吉田義男さんの引退後につけた選手は1人もなく、阪神の永久欠番となりました。
上の画像は、1965年(当時32歳)の時のものです。バットを振りかぶっている静止画ですが、なんだか緊張感がありますね!
引用元:日刊スポーツ
引退後はフジテレビ・関西テレビ解説者(1970年~1974年・当時37歳~41歳)を務め、当時フジテレビアナウンサーであった岩佐徹さんとはその後も親交が深く、何度も野球中継で解説者・実況の間柄で共演を果たしています。
この時期に、当時10歳前後だった今上天皇がプロ野球を観戦した際にも解説役として同席しました。天皇陛下は吉田義男さんがファウルを捕球することを期待してグローブ持参を申し渡されていて、吉田義男さんは当時について「ショートを守っている時よりも緊張しました」と振り返っています。上の画像は、その時のものです。
解説者時代には兵庫県西宮市でステーキ店を経営していたこともありました。そうしている間にも複数の球団からコーチのオファーが来て、中にはステーキ店に直接来店して依頼をする方もいたそうです。しかし、「今度ユニフォームを着る時も阪神で」という気持ちで全て断ったのだとか。
引退後の一時期、日本楽器の臨時コーチを務め、後に阪神に入団する榊原良行さんを指導しました。

子供時代の天皇陛下が観戦したのは、何年の試合だったのかな?

1970年の日本シリーズ第3戦、1971年の日本シリーズ第4戦、同年のロッテ-阪急戦だよ!
40代以上(1973年~)
引用元:Number Web
吉田義男さんは、1975年~1977年(当時42歳~44歳)・1985年~1987年(当時52歳~54歳)・1997年~1998年(当時64歳~65歳)の3期にわたり阪神の監督を務めました。
第2期の監督就任後は、チームの潜在力は認めつつも今すぐ優勝争いが出来るとは考えておらず、初年度は基盤固めを目指していました。チームスローガンは「フレッシュ、ファイト、フォア・ザ・チーム」の頭文字から取った「3F野球」としています。
優勝マジックが1になった時に報道陣から「これで王手ですね」「いよいよリーチですよ」と言われたのに対し「王手とリーチはどう違いますんかな?」と答えて笑わせつつ、「阪神フィーバー」が社会現象と言われる盛り上がりの中、10月16日にリーグ優勝を果たしました。
日本シリーズでも西武を退けて、阪神は初の日本一に輝き、インタビューに対して「ファンの方々の声援が我々を奮い立たせてくれた」と答えました。
引用元:日刊スポーツ
阪神の監督の第2期を終えた1988年(当時55歳)、知人を通じて日立製作所フランス社長の浦田良一さんを紹介されました。熱狂的な阪神ファンで日仏交流に情熱を注ぐ浦田さんの熱意に口説き落とされて翌年に渡仏します。
クラブチーム・パリ大学クラブ技術顧問・監督を経て、1990年(当時57歳)から1995年(当時62歳)までフランス代表の監督を務め、「ムッシュ(フランス語の敬称)」と呼ばれていました。フランスのスポーツ専門紙「レキップ」で「プチ・サムライ」と紹介されたこともあります。
個人主義のフランスでチームプレーを理解してもらうのには、相当な苦労があったようです。
「時間にルーズな国もある」とも「日本が几帳面すぎる」とも言われますが、フランスもあまり時間を守らない傾向があったようで、練習開始の時刻を誰も守らない上に遅れても平然として言い訳すらしなかったのだとか。ですが、「郷に入れば郷に従え」という考えで、辛抱強く異国の習慣に付き合っていったと語っています。
引用元:スポーツ報知
1998年(当時65歳)に阪神の監督の第3期を退任した後は、翌年から朝日放送の野球解説者を、2000年(当時67歳)から日刊スポーツの客員評論家を務めました。
2001年(当時68歳)から始まったプロ野球マスターズリーグでは大阪ロマンズの監督を務めていましたが、2007年(当時74歳)限りで他のチームの監督と共に勇退しています。
2011年(当時78歳)にはフランス野球界への貢献を評価されてフランス野球ソフトボール連盟の名誉会員に選ばれ、パリ国立スポーツ博物館で式典が行われました。同連盟の名誉会員は吉田義男さんで7人目ですが、日本人が名誉会員になるのはこれが初めてです。
そして2025年2月3日、脳梗塞のため兵庫県西宮市の病院で亡くなりました。91歳でした。7日にお通夜が、8日に告別式が行われ、お通夜には急遽来日したフランスの野球連盟のディディエ・セミネ会長達が参列しました。

いくら熱心に口説かれたと言っても、いきなりフランスに行けちゃうなんてすごいね!
吉田義男さんは元々フランス語が話せたの?

最初は全く言葉が分からなかったみたいだよ。
でも野球がコミュニケーションの道具になって、伝えたいことを少しずつ理解してもらえるようになったんだって。
【画像】吉田義男と妻の馴れ初めは?自宅はどこ?
吉田義男と妻の馴れ初めは?
引用元:スポニチ
引用元:JIJI.com
吉田義男さんは、1957年(当時24歳)に篤子(とくこ)さんという女性と結婚しています。篤子さんは吉田義男さんより3歳年下で、東京都の巣鴨中学校・高等学校という私立中高一貫校の校長を務めていた遠藤健吉さんの娘さんです。
関西のプロ野球選手と関東のお嬢様とでは接点が無さそうですが、お2人は吉田義男さんの高校時代の先輩である高田昌彦さんという方の紹介で知り合ったようです。
24歳と21歳で結婚というのは当時の価値観でも早いですし、「篤子さんのご両親は娘が若くして遠くへ嫁ぐことを良くは思わないだろう」と反対されることを覚悟していたそうですが、実際は驚きつつも結婚に賛成してくれて、無事に平安神宮で結婚式を挙げることが出来ました。
阪神の監督時代は心無いファンがしょっちゅうご自宅に采配についての苦情の電話をかけてきて、吉田さんが遠征で不在の時は全て篤子さんが対応していたため、あまりのストレスで胃潰瘍を患ったこともあったそうです。
そんな苦労も乗り越えて、吉田義男さんが亡くなった2025年まで添い遂げました。

お2人の間にはお子さんはいるのかな?

智子さんと範子さんという2人の娘さんが誕生しているよ!
娘さん達はどちらも結婚して関東に住んでいて、吉田義男さんと篤子さんには4人の男の子のお孫さんがいるんだって。
吉田義男の自宅はどこ?
引用元:ラジオ関西
引用元:日刊スポーツ
吉田義男さんは、結婚後に兵庫県西宮市の甲東園の住宅街に新居を構えました。甲東園というのは、兵庫県宝塚市の宝塚駅から兵庫県西宮市の西宮北口駅を経由し、今津駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線「阪急今津線」の駅の1つです。
その頃は今と比べると周囲がのどかな雰囲気で、新居の窓を開ければ牛の鳴き声が聞こえ、川には蛍がいたのだとか。
東京から引っ越してきた奥さんの篤子さんは、まくし立てるような関西弁になかなか馴染めなかったり、当時20代前半だったのに近所の子供達から「おばちゃん」と呼ばれて驚いたり、最初は大きな環境の変化に苦労されたそうです。
その後は兵庫県宝塚市の仁川(にがわ)の閑静な住宅街に移り住みました。インタビューでは宝塚市の魅力について「大阪・神戸の中間で生活環境に最適のまち」と語っています。

吉田義男さんはずっと関西にお住まいだったのかな?

2009年(当時76歳)の著書「牛若丸の履歴書」では、「関西暮らしは東京時代より遥かに長い50年に及んだ」と綴られているから、短い期間とはいえ東京に住んでいたこともあったみたいだね!
吉田義男さんがデビューした1953年はこんな年だった!
引用元:NHKアーカイブス、KINOKUNIYA、Amazon
吉田義男さんがデビューした1953年は、「NHKのテレビ放送開始」、「日本初のスーパーマーケット『紀ノ國屋』オープン」、「日本で『星の王子さま』出版」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語(大賞)は、駅前などに設置されたテレビを指す「街頭テレビ」でした。
吉田義男のプロフィール・著書
引用元:PR TIMES
プロフィール
- 名前:吉田 義男(よしだ よしお)
- 生年月日:1933年7月26日
- 年齢:享年91歳(2025年2月逝去)
- 出身地:京都府京都市中京区
- 血液型:O型
- 身長:167cm
- 趣味:喫茶店通い
著書
- 1994年:「海を渡った牛若丸―天才ショートの人生航路」(ベースボール・マガジン社)
- 2003年:「阪神タイガース」(新潮新書)
- 2009年:「牛若丸の履歴書」(日本経済新聞社)

趣味が「喫茶店通い」ってことは、特別に気に入っていた行きつけのお店があったのかな?

甲子園球場の近くの「S」という喫茶店がお気に入りだったみたいだよ!
カウンター席のみの、小ぢんまりとしたお店なんだって。