【画像】山田和利は若い頃イケメン!死因は何?娘・息子は何してる?

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プロ野球界でプレーヤーとして、そして指導者として地道に現場を支え続けた山田和利さん。2025年8月、60歳という若さでその生涯を閉じました。

一方で、俳優・山田裕貴さんの“父”としても知られる彼は、最後まで息子にも病を明かさぬまま、静かにその人生をまっとうしました。

今回は、山田和利さんの野球人生を振り返りつつ、父と息子の間にあった“無言の絆”にも光を当てていきます。

目次

【画像】山田和利は若い頃イケメン!

10代(1975年~1985年)

引用元:中日スポーツ

山田和利さんは、1965年の時に、愛知県名古屋市で生まれ育ち、野球の名門・東邦高校に進学しました。

高校時代は三塁手としてレギュラーを務め、勝負強い打撃と堅実な守備で注目され、1983年(当時18歳)のプロ野球ドラフトで中日ドラゴンズに4位指名されてプロ入りを果たすという人生の転機を迎えました。

当時の山田和利さんは、嬉しさと同時に、覚悟と緊張を抱いてプロの門を叩いたことが確認できます。

上の画像は1983年(当時18歳)の時にドラフト4位指名で中日ドラゴンズでプロ入りを果たした時のものです。

シン

山田さんって俊足だったって本当なのかな?

ラン

それは、「走塁でチームに貢献したい」「打てないときでも何かできる選手でいたい」という理由から、東邦高校時代には100メートルを11秒台で走る俊足を活かして、走塁や守備範囲の広さで評価されるようになったみたいよ!

20代(1985年~1995年)

引用元:中日スポーツ

山田和利さんは、1989年(当時24歳)の時に、菜実恵さんと結婚し、家庭を持つことになりました。

この頃の山田和利さんは、プロ野球選手としてもまだレギュラー定着を目指して奮闘していた時期であり、公私ともに“支え合う存在”を得たことが、その後のキャリアを歩む大きな力となったと伝えられています。

上の画像は、1989年(当時24歳)の時に結婚された時のものです。奥様はとてもお綺麗ですね。

引用元:デイリー

山田和利さんは、1991年(当時26歳)の時に、中日ドラゴンズの星野仙一監督と広島の山本浩二監督による友情トレードが成立し、音重鎮外野手とともに、広島の長嶋清幸外野手との“2対1の交換”で広島へ移籍しました。

慣れ親しんだ地元を離れ、内外野すべてをこなす柔軟な守備力と、勝負どころでの代打起用などに応える献身的なプレースタイルで信頼を勝ち取っていったことが確認できます。

上の画像は1991年(当時26歳)の時に、広島東洋カープへトレード移籍の時のものです。とても良い笑顔で、良いチームワークが築けそうですね。

引用元:デイリー

山田和利さんは、1992年(当時27歳)の時に、広島東洋カープでユーティリティプレーヤーとして活躍の場を広げ、リーグ優勝争いにも関わる中で、チームの貴重な戦力として信頼を得るようになりました。

当時のチームメイトの安仁屋宗八さんは、「真面目でおとなしい。手堅い守りで投手にすれば心強い。足も速く、打撃もしぶとい。カープに来て花を咲かせたと思います」と語っています。

また、同じくチームメイトだった金石昭人さんは、「マルチな守備ができ、勝負師でもある。でも目立とうとしない。プレーと一緒で余計なこと無駄なことをしない。誠実なんです」とお話しされています。

上の画像は1992年(当時27歳)の時に広島東洋カープでユーティリティプレーヤーとして活躍していた時のものです。良く見ると息子で俳優の山田裕貴さんのお顔にそっくりですね。

シン

山田和利さんの打率ってどれくらいだったのかな?

ラン

それは、レギュラーに定着はできなかったものの、1988年にはチームトップの三塁打4本・10盗塁を記録し、優勝に貢献したの。数字からも“チャンスで貢献する姿勢”が伝わってくるわね。

さらに1991年に広島へ移籍してからは、強打者タイプへとモデルチェンジし、1995年には打率.270、12本塁打、53打点をマークするなど、中軸を支える存在感を発揮したみたいよ!

30代(1995年~2005年)

山田和利さんは、1996年(当時31歳)、中日ドラゴンズに復帰したシーズンを最後に現役を引退を決断し、スター選手ではなくとも、誠実に役割を果たし続けた野球人生の一区切りを迎えることになりました。

翌年の1997年(当時32歳)の時に、中日ドラゴンズのコーチに転身し、1997年~2005年の間に軍打撃コーチ→一軍内野守備・走塁コーチ→一軍打撃コーチ→二軍内野守備・走塁コーチ→二軍野手総合チーフコーチ→中日のフロント入りと現場復帰を果たし、若手選手の育成に力を注ぎました。

広島時代にともにプレーした達川光男さんは、当時の山田和利さんについてこのようにお話しされていました。

「星野(仙一)さんに可愛がられた選手で、(山本)浩二さんとの間で期限付きの友情トレードで音重鎮と一緒に長嶋清幸の交換要員として広島にやってきた。ボクの前の7番を打っていましたね。打撃はパンチ力があって、甲子園でバックスクリーンに本塁打を打ったこともあるんよね。野球センスもいいし、堅守の良い選手じゃったね。広島ではセカンドを主に守っていたけど、中日時代には内野はどこでも守れるユーティリティプレーだった。

 選手生活は短かったが、引退後はコーチとして中日や広島で残ったわけだからね。2021年オフに退団したことは知っていたが、体調を壊されていたことは知らなかった。寡黙で無駄口を叩かずコツコツやる人だったから、自分のことも周囲に言わなかったんだろうね」

引用元:NEWSポストセブン

この時の山田和利さんの画像はみつかりませんでした。

引用元:X

1990年(当時25歳)の時に、山田和利さんは第1子となる長男で俳優の裕貴さんが誕生し、父親としての人生がスタートしました。

この時、山田さん自身は広島東洋カープに在籍中で現役選手として多忙な日々の中、父としての実感を深く語ることは少なかったものの、後に裕貴さんは「負けて帰ってくると話しかけづらい。でも本当は、僕のことをずっと考えてくれていたんだと思う」と語っていることから“黙って支える父親像”が確認できます。

上の画像は1990年(当時25歳)の時に長男で俳優の裕貴さんが誕生した時のものです。とてもかわいらしいですね。


裕貴さんはこの時の父親である山田さんについてこのようにお話しされています。

野球を選んだことに「父に近づきたかったのかな。ものすごく寂しかったんですよ、きっと。子供のころ。(父は)シーズン始まったら3分の1以上は家にいない。負けて帰ってきたらどう話しかけていいか分からない。『野球教えて』の一言すらも言えなかった。(父は)寡黙で厳しかった」と振り返り、「(でも)小中高ってずっと全部父親を追ってた」と話した。

引用元:デイリー

現場では若手を導く名コーチとして、家庭では多くを語らない父として山田さんの30代は、野球人としても父親としても“背中で語る存在”だったことが確認できます。

この時の画像はみつかりませんでした。

シン

息子の裕貴さんも野球を目指していたことがあるんだよね?

ラン

それは、父のようにプロ野球選手になりたい、父に近づきたいという憧れという理由から、小3から中3まで強豪チームで野球漬けの日々を送り、父の母校・東邦高校にも進学したの。

でも、レギュラーを掴めず悔し涙を流した日々、甲子園で仲間の活躍を観て「自分は諦めてしまった」と痛感した経験から、次にやると決めたことは最後まで続けようと決意し、俳優業を選んだみたいよ!

40代以上(2005年~)

引用元:スポニチアネックス

山田和利さんは、2011年(当時46歳)の時に、広島東洋カープの二軍守備・走塁コーチに就任し、2011年から2021年まで二軍守備・走塁コーチ→広島のフロントに入り球団編成を担当と若手選手の基礎づくりと育成に力を注ぎました。

本人の言葉はありませんでしたが、息子の裕貴さんは後に「私たち家族が今日までやってこられたのは、父がプロ野球の世界で懸命に働き、支えてくれたおかげです」と、父親に感謝の気持ちを述べていました。

人生の全てを野球に降り注いていましたが、野球界に大きな功績をもたらし、家族にもその姿勢がキチンと伝わっていることが確認できます。

上の画像は詳細な時期は不明確ですが、2011年から2021年までに広島東洋カープで若手選手の基礎づくりと育成に力を注いでいた時のものです。この情熱の元は野球が好きだからずっと携わっていたいという気持ちが大きいのだと思います。

引用元:Instagram

山田和利さんは、2025年8月16日(当時60歳)の時に、がんのため永眠されました。

この時息子の裕貴さんが訃報をSNSで公表し、大きな反響を呼びました。裕貴さんはその中で、「父は本当に最後まで野球人だった。僕には多くを語らなかったけれど、背中がすべてを教えてくれた」と語っており、寡黙な父と息子の間にあった深い絆と、語られなかった想いの重みが確認できます。

上の画像は、山田和利さんが2025年(当時60歳)に永眠した時に息子の山田裕貴さんが自身のInstagramに投稿した時のものです。とても暖かさが感じられる写真ですね。

シン

山田和利さんは息子の裕貴さんのことをどう見ていたのかな?

ラン

それは、広島時代の同僚・達川光男さんの「息子が俳優をしていることはみんな知っていたが、自慢するような人ではなかった。真面目で群れない、マイペースにコツコツやるタイプ」という証言があるの。

また、裕貴さん自身も「キャッチボールすらしたことがない遠い存在だったけれど、作品は見てくれている。『まだまだだな』と言われる」と語っており、寡黙ながら確かに息子を見守っていた父の姿が浮かび上がるわね。

【画像】山田和利の死因は何?娘・息子は何してる?

山田和利の死因は何?

引用元:東スポWEB

2025年8月16日、山田和利さんが静かにこの世を去りましたが、プロ野球に人生を捧げ、選手として、そして指導者として、常に現場に立ち続けた“縁の下の力持ち”の最期でした。

死因が明かされたのは、訃報を伝えた息子・裕貴さんの公式コメントによってでした。

「父は約4年前に癌を患い闘病していましたが、故人の意思により公にはせず過ごしてまいりました。野球というフィールドに限らず、公私共に親しくしてくださった皆様、直接ご挨拶を申し上げるべきところ、このような形でのご報告となりましたことを、深くお詫び申し上げます」と記した。

引用元:東スポWEB

闘病はおよそ4年間にわたり、本人は病のことを口外せず、グラウンドに立つ姿を崩さないまま現役コーチとして指導を続けました。関係者も「全くそんな素振りを見せなかった」と証言しており、プロ野球人として最後まで野球に生きた姿勢が、静かな尊敬を集めています。

シン

山田和利さんはどうして病気を隠していたのかな?

ラン

それは、「心配をかけたくない」「野球人として弱さを見せたくない」という理由から、故人の意思で闘病を明かさず、家族にも多くを語らないまま指導者としてグラウンドに立ち続けたみたいよ!

山田和利の娘・息子は何してる?

引用元:Instagram
引用元:Instagram

山田和利さんには、二人のお子さんがいることが知られています。長男は、俳優として活躍する山田裕貴さん。そしてもう一人娘さんでモデルの山田麻生さんがいます。

1990年生まれの裕貴さんは、2011年に俳優デビューしました。スーパー戦隊シリーズ『海賊戦隊ゴーカイジャー』で注目を集め、その後も数々の話題作に出演しています。2021年には『日経トレンディ』が選ぶ「今年の顔」に選出されるなど、人気俳優として活躍しています。

授賞式当日に、父から「今日でプロ野球を退かざるを得なくなった」と告げられたことも明かしており、「親父は悔しかったと思います。でもその日に“俺が頑張らないと”と強く思った。役者として託された感覚があった」と振り返っています。父の存在は、俳優としての決意を固める大きなきっかけとなりました。

また、2022年(当時57歳)の時には『オールナイトニッポン』に山田家が出演しました。普段は寡黙だった和利さんが珍しく饒舌に語り、裕貴さんは「最高の思い出になった」と振り返っています。亡くなる直前には家族全員が集まり、和利さんはまるでそれを待つかのように息を引き取ったといいます。

シン

山田裕貴さんと父親の最後はどんな感じだったのかな?

ラン

裕貴さんは、亡くなる5日前に妻・西野七瀬さんと実家を訪れ「最期の顔をしているようで嫌だった」と感じつつ「またな」と声をかけて東京へ戻ったそうなの。

そして数日後、和利さんは家族全員に見守られ旅立ち、裕貴さんは「もっとしゃべりたかった」と吐露されていたわ。

山田和利さんがデビューした1983年はこんな年だった!

引用元:映画ナタリー読売新聞オンラインJIJI.COM

山田和利さんがデビューした1983年は、「 スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還公開」、「 任天堂が「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)を発売」、「 大韓航空機撃墜事件」などの出来事があり、話題となりました。

また、この年の流行語は、「頭がウニになる」でした。流行語大賞は、翌年の1984年から毎年12月に発表されるようになりました。

山田和利のプロフィール・SNS

引用元:デイリー

プロフィール

  • 名前:山田 和利(やまだ かずとし)
  • 本名: 山田 和利
  • 生年月日:1965年6月3日
  • 年齢:60歳(2025年9月現在)
  • 出身地:愛知県
  • 血液型:不明
  • 趣味・特技:野球以外の情報が見つかりませんでした。
シン

山田和利さんに野球以外の趣味や特技ってあるのかな?

ラン

山田和利さんは人生の全てを野球に注いだから野球以外にはなかったわ。でも、こういった一つのことを全うする生き方もとても素敵よね。

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