ロックバンドGLAYのボーカリストとして活躍を続けているTERUさん。
ボーカルだけでなくギターやドラム、ピアノも担当し、作詞作曲や、近年では得意の絵画やデザインで作品の展示も行ってきました。
今回はTERUさんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】GLAYのTERUは若い頃イケメン!
10代(1981年〜1991年)
引用元:X1989年のGLAY・TERUを見てファンが思うこと 矢沢あいが作画したみたいな「小橋先輩」との物語
— トゥギャッター編集部 (@tg_editor) August 30, 2018
「小橋先輩まとめ」https://t.co/emLD77mXga @sio_hsさんから #トゥギャトピ
1988年3月(当時16歳)TERUさんは函館市立の小中学校を卒業し、北海道函館商業高等学校で、サッカー部の先輩から誘われた聖飢魔IIのコピーバンドに参加していました。
ドラムとしてバンドに参加していたことを聞きつけた、同じ小中学校出身のTAKUROさんから「オリジナル曲だけやるバンドを一緒に作らない?」と電話で誘われたそうです。ドラマーとしてGLAYを結成してすぐ、TERUさんの歌声をを聴いたTAKUROさんが歌のうまさに腰を抜かすほどの衝撃を受け、ボーカルを命じられました。
TAKUROさんはTERUさんに「ドラムを探して来るからTERUはボーカルをやったほうがいいよ」と話したそうです。
上の画像は1989年の時のものです。TAKUROさんの高校の後輩であるHISASHIさんをツインギターの相棒に迎え、GLAYが今の形に近づいていきます。この時、不良だったHISASHIさんですが、体格が小柄だったため「何があっても勝てる」と踏んで接触したとTAKUROさんがお話しされていました。
引用元:Instagram
1990年、TERUさんとTAKUROさん、そしてHISASHIさんは、函館での高校生活を終えると同時に「もっと大きな舞台で音楽をやりたい」という思いを胸に上京しました。函館ではライブをすれば多くの観客を集めることができていましたが、東京で待っていたのはまったく違う現実でした
ライブハウスに出演しても観客が数人しかいなかったり、彼らの音楽性が「ロックでもポップでもない」と評価され、受け入れられにくい状況が続きました。TAKUROさんは当時について、「東京に出てきたときは自分たちの音楽がこんなに通用しないのかとショックを受けた。けれど、やるしかなかった」とお話しされています。
上の画像は1990年に交付された免許証です。メンバーは音楽活動を続けるためにアルバイトを掛け持ちし、夜はライブハウスを巡るという生活を送っていました。TERUさんも後に、「あの頃はバイトして食いつなぎながら、とにかく歌い続けていた。大変だったけど、あれが自分を強くしてくれた」と振り返っています。

ドラムからボーカルに代わったTERUさんは、新しいドラマーが見つかるまでマイクを天井からぶら下げて、ドラムを叩きながら歌っていたんだって。

TAKUROさんは「TERUは自分がボーカルではなく、ドラマーでありたかった」とお話しされていて、TERUさん自身、『TAKUROさんが衝撃を受けた歌声』というものをよくわかっていなかったそうよ。
20代(1991年〜2001年)
引用元:X XTERUさんの名言〜1994年〜
— 誰かの為に生きる (@GLAYONLY1LOVE) July 6, 2024
何故、高校時代、バンド結成時にオリジナルの曲しかやらないバンドとして活動しだしたのかの(問いに)
TERUさん「自分達のやりたい事、言いたい事は、コピー(バンド)では伝えられないから✨」
TERUさん😍💕 pic.twitter.com/xAO9r6HIts【HIDE店長が選ぶ #夏ソング ㉑】#GLAY 「真夏の扉」(1994年)https://t.co/yRcKNDC3Zs
— HIDE (@HIDE25496556) July 28, 2017
GLAY初期の名曲です。TERUさん、こんな時代もありましたね~d('∀'*)
まさに、真夏の扉をこじ開けるかのような"スピードポップ"な爽快な一曲! pic.twitter.com/gQRDG9bSv1
1992年(当時21歳)転機となったのは同郷・函館出身のJIROさんとの再会でした。東京で再会したJIROさんをTAKUROさんが誘い、ベースとして加入。これによりGLAYの編成が整い、バンドとしての基盤が固まっていきました。
1994年(当時23歳)インディーズ期を経て、1994年5月25日にX JAPANのYOSHIKIさん主宰のプラチナムレコードからシングル『Rain』でメジャーデビューし、同時にインディーズ盤『灰とダイヤモンド』もリリースされました。
上の画像は1994年のものです。1995年には『SPEED POP』リリースにより、初のオリコンTOP10入り(8位)を記録し、本格的なブレイクの兆しを見せました。
当時はヴィジュアル系ムーヴメントの真っ只中にデビューしたGLAYは、「見た目はバリバリのビジュアル系ポップな曲もロックもやりたい。それでいて俺は長髪にメイクをして、スカートをはいてて」とTERUさんはお話しされ、「なんでそんな格好でポップやってんの?」と駆け出しの頃にライブハウスで言われたのが不思議だったと言います。「好きな格好で好きな曲をやりたい。何が悪いの?」と思っていたそうです。
引用元:X X追いかける恋愛も
— いまいざきさん (@beautymaniaxxx) March 8, 2025
追われる仕事も 近頃のNewsが ため息に変える…
深呼吸 新しい時代の行方を
照らすメロディー…
高らかに うぶ声を 上げてくれ。
【グロリアス】1996年
GLAY pic.twitter.com/DGUJuPkBDU引き続き音楽雑誌整理中なんですけど、1996年のTERUさんめちゃめちゃ美青年ですね‧˚₊*̥(* ⁰̷̴͈꒨⁰̷̴͈)‧˚₊*̥ pic.twitter.com/iRRSgK0QFB
— ユタカ(YUTAKA) (@mashumarousagi) January 22, 2017
1996年2月に発売されたアルバム『BEAT out!』が自身初のオリコン1位を獲得し、バンドは一気に注目を集めます。さらに同年11月には『Beloved』をリリース。オリコン初登場1位を記録し、累計150万枚を超えるミリオンセールスとなり、GLAYは「本当に売れた」バンドとして広く知られるようになりました。
GLAYの楽曲のほとんどの作詞・作曲をリーダーのTAKUROさんが担当していますが、この頃レコーディングの忙しさのピークを迎えていた時期でありTAKUROさんは「10日間で7曲の詞を書いた事もあった」とお話しされています。
上の画像は1996年のものです。『BEAT out!』に収録されている『週末のBaby talk』はTERUさんの作詞作曲ナンバーで、「GLAYで新しいことに挑戦しようと思って書いた曲」とお話しされています。コーラスには当時JUDY AND MARYのボーカルだったYUKIさんが参加されました。
引用元:X X【 #今日は何の日 】
— 時事通信社写真部 (@jiji_shashinbu) July 31, 2025
1999年 #7月31日
人気ロックグループ「GLAY」が、国内史上最大規模の野外コンサートを幕張メッセ駐車場の特設ステージで開催した。会場には約20万人のファンが詰めかけ、通称「20万人ライブ」。
《そのほかの出来事》https://t.co/R6qHBCGj83 pic.twitter.com/dcMOE981UjGLAY、1999年の伝説の“20万人ライブ”
— ORICON NEWS(オリコンニュース) (@oricon) July 24, 2025
最新リマスターで蘇る❗️NHKで8月1日放送https://t.co/QP3xkb2j9x
📸写真3枚目
右画像が今回のリマスター版#GLAY @glay_official pic.twitter.com/8QsiXIXFhY
1999年(当時28歳)2月に発売された16thシングル『Winter,again』はキャンペーンソングに起用され、シングルとしてはGLAY最高となる164万枚を売り上げ、5作連続ミリオンセラーを記録しました。
上の画像は幕張メッセ駐車場特設ステージで開催した『GLAY EXPO '99 SURVIVAL』です。日本国内の音楽史上最大となる1公演で20万人を動員する特大ライブとなりました。多くの活躍を受けて、GLAYメンバー4人全員が函館出身ということもあり、函館市はGLAYに対して『函館市栄誉賞』を授与しました。
『Winter,again』は『全日本有線放送大賞』と『日本有線大賞』の大賞受賞に加え、『日本レコード大賞』を受賞しました。ところが、このレコード大賞の受賞について当初はメンバー全員が納得しておらず、レコード大賞受賞式とその年の『NHK紅白歌合戦』出場後にGLAYを解散させようとしていたそうです。
いろんなところで言ってるんですけど、1999年の年末にレコード大賞を獲ったんですよ。誰がどう見ても宇多田ヒカルだろうっていうときに。でも、メンバー全員納得いってなくて、当時の映像を振り返ると仏頂面をしながら出てるんですよね。今だったら自分をぶん殴ってやりたいですけど(笑)。その年末にGLAYを解散させようと思って、「レコード大賞」と「紅白」に出たんですけど、そのあとでメンバーの家で「解散するんだったらまた一緒にバンドやろうよ」「だったらGLAYでいいんじゃないか?」って話になって。GLAYっていうバンドを続けるために、ここまできたら怖いものは何1つないと。レコード会社にしても、インディーズに戻ろうって話も出ましたからね。
引用元:音楽ナタリー
上記のようにHISASHIさんがお話しされています。

GLAYはこの頃爆発的に人気になったね。
ライブチケットの予約が取れないほどすごかったんでしょう?

1998年のライブ『GLAY TOUR '98 pure soul』のチケット予約開始日には、予約電話が殺到した影響で電話回線がパンクして、午前10時頃から約1時間、全国各地で電話がかかりにくい状況となったんですって。
30代(2001年〜2011年)
引用元:XGLAY / STAY TUNED(2001年)
— おぼかた ㌧ (@Kreis_21) July 1, 2024
101曲目 ※週間2位
※2001年度年間49位
※珍しく歌詞間違い1分43秒~
※今年の夏曲にお勧め('ω')#ぶたお名曲BOX #GLAY pic.twitter.com/mMQtV9ZcmL
2001年(当時30歳)TERUさんは坂本龍一さんを中心とする地雷排除支援活動地雷ZEROに協力し、チャリティーソング『ZERO LANDMINE』に参加しました。
Charaさん、大貫妙子さん、吉田美和さん、桜井和寿さん、UAさん、佐野元春さん、シンディローパーさん、デヴィッド・シルヴィアンさんなど多数の国内外の著名アーティストとともに、『N.M.L.(NO MORE LANDMINE)』という音楽ユニットを結成しました。
この時TERUさんは、「地雷のことは知っていたけど、実際にどういう被害があるのかを深く理解できていなかった。こうして音楽を通して訴える機会をもらった以上、自分の世代や若い人たちにもしっかり伝えていきたい」とお話しされ、プロジェクトに参加したことで音楽は楽しませるだけじゃなく、人の命や未来を守るためにできることがあると実感したそうです。
上の画像は2001年の時のものです。この年には初のテレビレギュラー番組『GLAY GLOBAL COMMUNICATION』が放送開始され、レギュラーラジオ番組『GLAY RADIO COMMUNICATION』も開始されました。
引用元:X8月27日
— SAS-hour!! (@sas_hour) August 26, 2023
▼2006年、桑田佳祐の呼び掛けで実現した野外フェス「THE 夢人島 Fes.2006 WOW!! 紅白! エンタのフレンドパーク Hey Hey ステーション …に泊まろう!」2日目・最終日、浜名湖ガーデンパーク。
#サザン今日は何の日 pic.twitter.com/Zm5Luk0hy0
2000年代半ば、メンバー各々が音楽やアート、社会活動などの個人活動を広げる一方で、旧所属事務所との間で 著作権やマネジメントの取り扱いをめぐるトラブルが浮上します。このためGLAYのメンバーは「自分たちの音楽を自分たちの手に取り戻す」ことを強く意識するようになりました。
2006年(当時35歳)長年活動を共にしてきたスタッフを一新し、独自のマネジメント体制を構築。新しいチーム体制で再出発を果たしました。11ヶ月ぶりの単独ライブを成功させます。
当時、リーダーのTAKUROさんはインタビューで「一度ゼロに戻してでも、自分たちの意思でバンドを動かしたかった」と語り、TERUさんも「自分たちで音楽をコントロールするための大切な決断だった」と振り返っています。
上の画像は2006年『THE 夢人島 Fes.2006 WOW!! 紅白! エンタのフレンドパーク Hey Hey ステーション…に泊まろう!』の時のものです。桑田佳祐さんの呼びかけでサザンオールスターズ、福山雅治さん、BEGIN、ポルノグラフィティ、Mr.Children、GLAYが集結した豪華なフェスでした。

ステージの袖でスタンバイしていた時に、何気なくTAKUROさんがTERUさんを呼んだ『あだ名』に桑田さんが反応したんだって?

TAKUROさんはTERUさんのことを「てっこ」と呼んだんですって。
桑田さんが「"てっこ"って言うんだ。」と反応されて、「もう20年近く前から、"てっこ"って呼んでるんですよ」とTAKUROさんも返したそうよ。
小学生時代から付き合っていると、呼び方も昔から変わらないわよね。
40代以上(2011年〜)
引用元:Xこんなのもあるよん♥️ pic.twitter.com/KARYBG22wl
— TERU (@TE_RUR_ET) October 27, 2013
2013年(当時42歳)厚生労働省は、12月1日の世界エイズデーに向けた取り組みの一つとして『RED RIBBON LIVE 2013~恋愛の数だけHIVを語ろう』を開催しました。呼び掛けに賛同した各界の著名人が音楽とトークを通じてエイズの予防啓発のメッセージを発信するもので、GLAYからはTERUさんが参加されました。
TERUさんは2007年エイズがテーマになったACジャパンのCMや、レッドリボンキャンペーンに参加されており、「自分がこういう活動をする事で少なくとも僕のファンは検査の大切さを理解してくれる。検査を受けてみようって人が増えるかもしれない。そういう事になら自分の名前はいくらでも使いたい」とお話しされていました。
上の画像は2013年のVAMPSが主宰するハロウィンイベント『HALLOWEEN PARTY 2013』のものです。いろいろなイベントに参加しながらもTERUさんがチャリティ活動に積極的なのは、音楽は人を支えられるという信念と、支えられてきた自分が今度は支える番という強い意識からだと思われます。
引用元:Instagram XRAKUZINE樂窟誌 のインスタより。
— こまち❤️透析5年目 (@komachi3013) February 1, 2025
台北ランタンフェスティバル参加の
TERUさんのメッセージ pic.twitter.com/G7xoiMnoN7
TERUさんは近年、音楽活動にとどまらずアート分野にも精力的に取り組み、2023年(当時52歳)には絵画作品を中心とした作品展や個展を開催しています。函館のあうん堂ホールで開催された個展『音の可視化』は歌や音楽を「視覚的に表現する」というユニークなコンセプトで、音楽とアートを融合したものでした。
TERUさんは「子どもの頃からよく絵を描いていました。落書きみたいなものから始まって、音楽に出会う前は絵を描く時間が多かったくらいです。」とお話しされて、「音楽活動の中でも絵を描くことはずっと続けてきました。昔から好きだったことが、ようやく形になってきた感じです。」と個展開催に踏み切った思いを伝えていました。
上の画像は2025年の『台北ランタンフェスティバル』のものです。TERUさんがデザインしたランタンが台湾・台北市内に展示されました。日台友好の願いも込められているそうで、「困難な時代だからこそ、音楽と絵画を通して多くの人に希望を与えたい」とお話しされていました。

TERUさんが初めて個展をされた『あうん堂』はGLAYにとって大切な思い出の場所なんだよね。

高校生の頃に結成したGLAYは当時「あうん堂でワンマンライブを演ることが夢だった」とTERUさんがお話しされているの。
アマチュア時代このホールでたくさん活動されてきたのでしょうね。
現在はJIROさんの高校の後輩が店主をしていて、GLAYファンの聖地と言われているわ。
【画像】TERUは現在は顔が変わった?前妻や現在の妻は誰?
TERUは現在は顔が変わった?
引用元:X X息子(10)がGLAYを検索していて
— keiyan (@314_mkh) September 4, 2021
「見て!若い頃のTERUさん、めちゃくちゃかっこいいよ。」
って言って見せてきた写真がこちら。
うん。知ってるし、今もかっこいいよ。
しかし、かっこいいな。#TERU pic.twitter.com/va9ZpAubdjTERUさんお誕生日おめでとう🎂
— すゆん(🔴°🔶°🔴) (@arexandora) June 8, 2016
ハマった頃の雑誌のスクラップ。1996年からだから今年20年目か。ファッ? pic.twitter.com/TvFHV1TBmr
引用元:BARKS スポニチアネックス
かつてはシャープなフェイスラインとスタイリッシュな佇まいで、多くのファンを虜にしたGLAYのボーカル、TERUさん。1994年のデビュー当時は“ハーフのような美しい顔立ち”が印象的でした。ところが、近年になってネット上では「顔がふっくらした」「老けた」「劣化した」といった声も出てきているようです。
TERUさんは現在50代半ばであり、代謝の低下や自然な加齢、生活習慣の変化などによって外見に変化が見られるのは、ごく自然なことともいえます 。また、テレビやPVで顔がはっきり映るシーンが減ったとの指摘もあり、本人や制作側が映像演出に注意している可能性もありますが、確たる情報はありません 。
一方、ファンからは「天然だけど歌も抜群に上手くてカッコいいから許されるボーカリスト!」「今のTERUさんが好き」という肯定的な声もあり、TERUさんの音楽と人柄に変わらぬ支持を寄せています 。
TERUさんの顔は確かに若い頃とは変化しているものの、それはあくまで自然な年齢相応の姿であり、いわゆる“劣化”というレッテルで一括りにするものではありません。魅力の本質はルックスではなく、長年にわたって届けてきた“歌”と“存在そのもの”であると、多くのファンは理解しているようです。

やっぱり男性は女性と違って、若い頃に肌のケアを考えたりしなかっただろうし、年齢相応の変化とも言えるよね。

年齢を重ねると誰しも変化は起こるものよね。
若い時からお酒が好きだったり、元喫煙者だったり、仕事柄不規則な生活をされていたりすると、その変化が現れやすくなったりするんじゃないかしら。
TERUの前妻や現在の妻は誰?
引用元:Xフォおおおお亜美ちゃんとTERUさん!!!#過去の写真めぐり pic.twitter.com/ATKEDnhCzB
— MARIA GLAY病重症患者 (@g4lover901) July 2, 2015
引用元:FRIDAY DIGITAL FRIDAY DIGITAL
TERUさんは1993年、まだGLAYがメジャーデビューする前に一般女性と結婚し、一男一女をもうけました。前妻は一般の方のため、氏名や職業などは公表されていませんが、GRAYがまだ売れないバンド時代からのファンで、お金のなかった頃のTERUさんを支えてくれていた女性だそうです。
1998年にはTERUさんからの「音楽に専念したい」という申し出から別居に至っていましたが、1999年にTERUさんの不倫報道が飛び出しました。2000年には慰謝料と養育費を支払う形で離婚が成立しています。
そして、離婚のきっかけになったと言われているのが不倫報道の相手、PAFFYの大貫亜美さんです。TERUさんは2002年4月29日、現在の奥様である大貫亜美さんと結婚しました。出会いは1998年のテレビ番組『パパパパPUFFY』の共演がきっかけとされています。
当時TERUさんは「音楽活動を続けていく上で、今はどうしても彼女(亜美)が必要な存在です」とお話しされていました。
結婚後TERUさんは「音楽を愛し、この世界で頑張ってきた2人なのでこれからもお互いに刺激し合いながら音楽の道を進んでいた行きたいと思います。」大貫亜美さんも「皆様にはご迷惑をおかけしたと思いますが、自分なりに熟考したを重ねた結果ですのでご理解頂ければ嬉しいです」とそれぞれにコメントを出していました。

現在は再婚して20年以上になるね。
「離婚?別居している?」なんて噂もあるみたいだけど・・・。

2003年3月には長女が誕生しているんだけど、「子供が大きくなったので都内にいくつかある仕事部屋を使い分けて生活している」とTERUさんの所属事務所が「離婚していません」と説明されているわ。
TERUのプロフィール・SNS
引用元:LSG
プロフィール
- 名前:TERU(テル)
- 本名: 小橋 照彦
- 生年月日:1971年6月8日
- 年齢:54歳(2025年9月現在)
- 出身地:北海道
- 血液型:O型
- 趣味:料理、TVゲーム
- 特技:絵を描くこと
- 所属事務所:LSG
SNS
- X(旧Twitter) URL:https://x.com/TE_RUR_ET
最終日です!
— TERU (@TE_RUR_ET) August 11, 2025
本日15時まで! pic.twitter.com/HubDfIhTjv
- Instagram URL:https://www.instagram.com/glay__teru/
- YouTube URL:https://www.youtube.com/GLAY
- オフィシャルサイト URL:https://www.glay.co.jp/

- 公式ブログ URL:https://ameblo.jp/glay-official/


TERUさんは料理を趣味にしているよね。腕前はどうなんだろう?

メンバーが絶賛するほどの腕前だそうよ!
「ナスが食えなくて・・・TERUの料理で食べられるようになりました」とJIROさんがコメントされていたこともあったのよ。