【画像】武豊は若い頃イケメン!年収・賞金がスゴイ!浮気騒動があった?

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中央競馬界の騎手として活躍を続けている武豊さん。

幼い頃から生活圏にあった馬の存在、騎手であるお父さん、周囲の競馬関係者の方々の影響もあり、自然と騎手を志願するようになりました。レースに優勝すると、共に戦った競争馬をなでている姿が印象的です。

日本競馬界のレジェンド」と称賛されるほどJRAの多くの記録を更新し続け、日本の代表的な騎手として活躍してきました。

今回は武豊さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!

目次

【画像】武豊は若い頃イケメン!

幼少期・10代(1969年~1989年)

引用元:武豊 Official Site

武豊さんは、京都府京都市伏見区に4人兄弟の三男として誕生しました。父の武邦彦さんはJRA(中央競馬界)の騎手として働いており、明くる年家族を伴って、滋賀県栗東市の栗東トレーニングセンターへ転居しました。

上の1つ目の画像はお父さんが30代前半で、武豊さんは1歳頃だと思われます。お2人ともイケメンですよね!

引用元:X

武豊さんは、厩舎(きゅうしゃ)と家が近く、外出前厩舎の馬にニンジンを与えることが習慣化していました。幼い時から身近に馬のいる環境であったこと、騎手である父の背中を見て育ったことが影響し、分別つく頃には「騎手になりたい」という気持ちが見え始めていたのでした。

小学5年生の時、栗東乗馬苑で乗馬を教わり始めました。指導員の竹之下満義さんは、「他の人が敬遠するような癖のある馬に乗っても全然バウンドしないしコースを綺麗に回ってくる。馬も彼が乗ると嫌がらないんです」とお話しされており、武豊さんは馬との接し方や乗馬が上手であったことが確認できます。

上のXの画像は、栗東町立金勝小学校6年生の時のものです。現在調教師の池江泰寿さんと武豊さんは同じクラスで、席も前後で近かったのですね。常に2人で、競馬談義に花を咲かせていました。

武豊さんは、「朝ね、ランドセル背負って、調教でみんな運動しているところを歩いて小学校へ通っていたんです」とお話しされており、毎朝馬の調教風景を見ながら登校していたことが確認できます。

2つ目の画像は栗東中学1年生の時のものです。肩を組んでいるお相手は後に調教師を志望する、2歳先輩の須介尚介さです。

武豊さんは、「一緒に乗馬をやったりしていました。栗東中学は競馬関係者の子供が多かったので、みんな仲良くしていましたよ。」とお話しされており、乗馬をしたり交流をしたりしていたことが確認できます。

引用元:武豊 Official Cite武豊 Official Cite

武豊さんは、1984年(当時15歳)の時に、千葉県のJRA競馬学校へ入学しました。入学した時から馬乗りのレベルは高く、その生徒には高い障害を跳ぶ許可を与えられました。騎乗についても研究熱心で、自身や他の生徒の騎乗映像を再生し、勉強するほどです。

1985年10月(当時16歳)、武田作十郎厩舎で実習を始め、1986年9月(当時17歳)まで継続して行いました。上の画像は1986年競馬学校2年生の時、栗東トレーニングセンターでの実習風景です。真剣に騎乗していますね。

この時武豊さんは、「河内さんの兄弟子がオヤジだったので、『河内の言う事を良く聞いておけよ』と言われるぐらいでしたよ」とお話しされており、親子2代で河内洋調教師にお世話になっていたことが確認できます。

2つ目の画像は1987年2月(当時17歳)の時、馬が弟の幸四郎さんの頭を噛んでしまった時のものです。この日は競馬学校の卒業式でもありました。

武豊さんは、「この頃の幸四郎は小学校の低学年ぐらいですけれど、騎手になりたいって言っていましたよ。この頃は可愛かったです。まさかこの時に幸四郎が調教師になるとは…。不思議ですよ。」とお話しされており、小学生の幸四郎さんが馬を調教した可能性があることが確認できます。

武豊さんは学年1位で、競馬学校を卒業しました。実技も馬学も成績優秀な生徒でした。

引用元:スポーツ報知テレ東スポーツ

武豊さんは、1987年(当時17歳)の時に、武田作十郎厩舎に所属し、河内洋調教師の弟弟子となりました。同年11月リードトライデントに騎乗し、27年ぶり新人最多勝記録を塗り替えました69勝もの勝利を挙げて、JRA賞最多勝利新人騎手賞を受賞します。

上の画像は1987年3月、騎手デビュー戦にて2位になり、お父さんの邦彦さんと一緒にインタビューに応じている時のものです。「父の七光り」と呼ばれた当時、武豊さんは「タケクニの息子の武豊」として対応され、「タケトヨ」というニックネームが付けられました。

武豊さんは、「いつか父が『武豊の父』と呼ばれるようになりたい」とお話しされており、活躍してお父さんを引き立てたかったことが確認できます。

2つ目の画像は1988年11月(当時19歳)の時に、京都競馬場で開催されたレース「第49回菊花賞」に出場しました。オグリキャップ、イナリワンに次ぎ「平成3強」と呼ばれたスーパークリークに騎乗し、 G1レースで初勝利です。

武豊さんは、「この馬に乗れないなら、参加しても仕方ない」とお話しされており、競走馬としてスーパークリークの素質を高く評価したことが確認できます。

冷静さのある武豊さんの騎乗は、「天才」として注目を浴びるようになりました。

シン

武豊さんは調教のそばを通って小学校へ向かっていたみたいだけど、調教は何時に始まるのかな?

ラン

早朝5時から始まるみたいよ!
馬は寒さに強く暑さには弱いそうだから、気温が上がる前から開始するそうだね。

20代(1989年~1999年)

引用元:岐阜新聞デジタルX

武豊さんは、1990年(当時20歳)の時に、競馬ブームの中心的な存在オグリキャップに騎乗しました。同年5月に東京競馬場にて開催の「第40回安田記念」、12月に中山競馬場で行われた「第35回有馬記念」で勝利を収めています。

この時武豊さんは、

「あのときは『オグリキャップに乗る』というだけでさすがに緊張しましたし、『なにか、えらいことを頼まれてしまったな』という感じですよね、引退レースですから。でも、騎乗できてすごく嬉しかったです。ただ『こう乗ったら勝てる』とかいった感覚はなかったですね。」

引用元:JRA-VAN

とお話しされており、オグリキャップにとって最後のレースに緊張したことが確認できます。

上の画像はオグリキャップの引退レース「第35回有馬記念」に臨んでいる、武豊さんです。不調な時もあったオグリキャップの優勝は「奇跡の復活」「感動のラストラン」と称され、中山競馬場はオグリコールで沸き立ちました。

2つ目のXの画像は1994年9月(当時25歳)の時、フランスのパリロンシャン競馬場にて行われた「第38回ムーラン・ド・ロンシャン賞」に出場しました。スキーパラダイスに騎乗し、海外のG1レースにて武豊さんも日本人騎手としても初勝利です。

引用元:NEWS ポストセブンNEWS ポストセブン日刊スポーツ

武豊さんは、1995年6月(当時26歳)の時に、京都市内のカトリック聖ヴィアトール北白川教会にて歌手の佐野量子さんと結婚式を挙げました。作家の伊集院静さんと女優の篠ひろこさん夫妻が立会人のもとです。出会いのきっかけは1988年6月、中央競馬場のイベントにて佐野量子さんが歌を披露したことでした。

上の1つ目と2つ目の画像は同年6月、結婚式の時の武豊さんと佐野量子さんです。美男美女の新郎新婦でした。

3つ目の画像は同年7月、小倉競馬場にて1000勝に達成した時のものです。大きな花束とレイが1000勝にふさわしい贈り物でした。武豊さんは、「1000勝目はエールノコイビトというオヤジノ厩舎の馬でした」とお話しされており、武邦彦さんの調教の馬で1000勝目を飾ったことが確認できます。

引用元:netkeibaX

武豊さんは、1998年6月(当時29歳)の時に、「第65回東京優駿(日本ダービー)」で優勝しました。序盤は真ん中よりも後方を走っていましたが、最後の最後にスペシャルウィークが一気に追い上げて1位に輝きました。1988年から10度目の挑戦で、ようやく掴んだ栄光です。

幼い頃騎手になりたいと将来を想像した時、日本ダービーを勝つ姿を思い浮かべたそうです。上の画像はスペシャルウィークが先頭に出た場面です。後続と差が生まれる瞬間でした。

武豊さんは、「勝った時はガッツポーズはやめよう。あくまでもクールに決めよう」と冷静に考えられており、ガッツポーズは控え目にしようと思っていたことが確認できます。自身のガッツポーズはさることながら、スペシャルウィークへの労いも見られました。

東京競馬場は「ユタカ」コールでいっぱいになり、武豊さんにとって「それまでの人生で、最大、最高の瞬間」でした。

同年8月、フランスのドーヴィル競馬場にて開催されたレース「第76回モーリス・ド・ギース(またはモーリス・ド・ゲスト)賞」に出場しました。日本調教馬として訓練されたシーキングザパールは、海外G1レースを初勝利です。

残り300mの場所から追い込みを掛けたシーキングザパールは、後ろから付いてくるジムアンドトニックなどの馬から逃げ切るように勝利を収めます。そして走破タイムを17年ぶりに更新しました。

武豊さんは、「フランスでは序盤は抑えて行くことが多いんです。だからシーキングザパールの持つスピードなら、十分に通用すると思いました」とお話しされており、レースの後半で追い上げる戦略であったことが確認できます。

2つ目のXの画像は「モーリス・ド・ギース賞」のレースの模様です。ラストスパートの場面でした。

シン

武豊さんは、どうして佐野量子さんに声を掛けたのかな?

ラン

それは、1989年12月、武豊さんがバラエティ番組「笑っていいとも!」のテレホンショッキングに出演した時、紹介する芸能人の友人がおらず、やむを得ず佐野量子さんを紹介したみたいよ!当時からきっと魅力的だったのね。

30代(1999年~2009年)

引用元:YAHOO!JAPAN ニュース

武豊さんは、2000年6月(当時31歳)の時、アメリカ西海岸に拠点を移す意向を示しました。幼少期にアメリカの競馬雑誌「ブラッドホース」の写真を見たり、一流騎手であるクリス・マッキャロンさんゲイリー・スティーヴンスさんなどが叩き合う映像を、繰り返し観たりしていたそうです。

その影響もあり、アメリカの競馬に強く惹かれていました

あるレースにて、かつて観ていたクリス・マッキャロン騎手との一騎打ちになりました。しかしクリス・マッキャロンさんが粘り強く、余裕のあった武豊さんは敗北してしまったのです。

武豊さんは、「結局、負けてしまいました。『あの手応えで何故負けたのか?!』と、不思議に思って考えたのと同時に、世界のトップジョッキーの素晴らしさを、身をもって痛感させられました」とお話しされており、自身よりも強い騎手の存在を知ってしまったことを確認できます。

上の画像はアメリカにいた時の武豊さんです。この時の苦い経験は、翌年からのフランス遠征での原動力になってゆくのです。

引用元:YAHOO!JAPAN ニュースYAHOO!JAPAN ニュース

武豊さんは、2001年(当時31歳)の時に、フランスを拠点にレースに挑戦するため、フランスのシャンティイに長期間滞在しました。フランスのジョン・ハモンド調教師から「主戦騎手としてフランスに来ないか?」と声が掛かり、アメリカで続けたい気持ちもあったけれどチャンスだとも思ったそうです。

上の画像は2001年7月(当時32歳)の時、食事をしている武豊さんと池添謙一騎手です。池添謙一さんは自身の将来を見定め、海外渡航を英断します。敬愛する武豊さんを頼り、フランス入りしたばかりでした。

その日ドーヴィル競馬場にて武豊さんの騎乗した馬が突然故障し、馬場に投げ落とされると左手を骨折してしまいます。

この時武豊さんは、「ケンイチを乗せてもらえないですか?」とお話しされており、次の騎乗予定を池添さんに譲ろうとしたことが確認できます。陣営との話は順調に進み、思いがけず池添謙一さんの海外初騎乗が設定されました。

観戦のつもりだった池添さんは武豊さんから服を借り、武豊さんの騎手仲間オリビエ・ペリエさんからはブーツを借りて、無事に出場を果たしました。

同年10月インペリアルビューティに騎乗し、「第45回アべイ・ド・ロンシャン賞」に出場しました。同年フランスG1レースを初めて勝利します。続いて「第80回凱旋門賞」にも出場し、サガシティに騎乗しました。3位入賞し、大健闘です。

2つ目の画像は同年10月、パリロンシャン競馬場にて「第45回アベイ・ド・ロンシャン賞」でインペリアルビューティに騎乗した時のものです。武豊さんの笑顔から、有意義な様子が伝わってきますね。

引用元:毎日新聞YouTube

上の画像は2005年10月(当時36歳)の時、京都競馬場にて「第66回菊花賞」に出場した時のものです。この年はディープインパクトと力を合わせ、同年4月の「第65回皐月賞」、5月の「第72回東京優駿」も優勝し三冠馬となりました。

武豊さんは、2006年12月(当時37歳)の時に、中山競馬場にて開催のレース「第51回有馬記念」でディープインパクトの引退レースに出場しました。ディープインパクトは群を抜いて脚の回転速度が速く、その姿は飛ぶように走ると形容されています。

初めは伸び伸びとした走りで後方にいましたが、ラストの直線コースに入ると一気に追い上げて優勝です。これこそが最後の衝撃でした!

この時武豊さんは、「こんな名馬に出会えて本当に幸せでした」とお話しされており、ディープインパクトが素敵な馬であったことが確認できます。

2つ目のYouTube動画は、ディープインパクトの最後のレースのものです。良かったらご覧ください。

シン

武豊さんは、ディープインパクトが一番好きだったのかな?

ラン

それは、ディープインパクトは難しい馬だったという理由から、乗りこなせたレースがなかったみたいよ!
2019年7月にディープインパクトが亡くなった時、武豊さんは「ボクにとって、本当に特別な馬」というコメントを発表しているよ。

40代・50代以上(2009年~)

引用元:netkeiba

武豊さんは、2013年3月(当時54歳)の時に、阪神競馬場にて「第60回毎日杯」に出場しました。ディープインパクトの産駒キズナに騎乗し、優勝しました。2010年の同レースにてザタイキの故障で落馬し重症を負いましたが、この勝利によって心機一転できたそうです。

この時武豊さんは、「直線が長くて馬場も広いから、外に出した。最後はいい脚。一戦ずつ良くなっているね」とお話しされており、レースの終盤の走りも良かったことが確認できます。

上の画像は同年3月、「第60回毎日杯」の時のものです。ディープインパクトと似ているように見えました。

同年5月東京競馬場にて開催された「第80回東京優駿」にキズナとともに出場しました。

武豊さんは、「個人的なことを言えば…ここのところ成績が落ちていて、結果を出すことが出来なくて。そういう中でこういう馬に出会えて、ダービーを勝てて本当に嬉しいです!」とお話しされており、キズナに会って優勝もできたので嬉しかったことが確認できます。

引用元:スポニチ競馬Web スポウマ

武豊さんは、2025年3月(当時56歳)の時、フランスのオリビエ・ペリエ元騎手が栗東トレーニングセンターを訪問しました。毎年冬期になるとオリビエ・ペリエさんは短期免許を取得して日本のレースに参戦し、武豊さんから「冬の風物詩」に例えられていました。

日本のレースで最後に臨んだのは2012年のジャパンカップで、13年ぶりの来日です。2024年4月、オリビエ・ペリエさんは騎手を引退していますが、武豊さんと親交があります。

武豊さんは、「自分がフランスで乗り始めた頃、競馬場のロッカールームが隣になることもあり、親しくなりました」とお話しされており、年齢の近いペリエさんとすぐに打ち解けたことが確認できます。

ペリエさんは現役時代、レース中でも武豊さんとお互いに傍を走行し、武豊さんは「オリビエの後ろで競馬をすると、安心して乗っていられます」とお話しし、ペリエさんも「ついて行くのは僕の方だ」と尊敬の念をのぞかせています。

上の画像は栗東トレーニングセンターにペリエさんが訪れた時のものです。騎乗技術においても信頼関係のある、素晴らしい2人ですね。

シン

オリビエ・ペリエさんが来日時に取得していた短期免許とは、どんな免許だったのかな?

ラン

それは、主に海外の騎手が来日してレースに騎乗する場合、有効期間が1か月単位の騎手免許みたいよ!1994年からこの制度が開始したそうだね。

武豊さんが所属する”栗東トレーニングセンター”には他に誰が所属してる?

引用元:GJ中日スポーツ 東京中日スポーツdmenu ニュース

武豊さんの所属する栗東トレーニングセンターには、川田将雅(ゆうが)騎手松山弘平騎手池添謙一騎手などが所属しています。武田作十郎調教師の引退された1992年2月以降、武豊さんは厩舎に所属しておらず、フリー騎手となっています。

【画像】武豊の年収・賞金がスゴイ!浮気騒動があった?

武豊の年収・賞金がスゴイ!

引用元:中日スポーツ 東京中日スポーツ

武豊さんの年収・賞金がスゴイと言われています。JRAの賞金額が世界の中で抜きん出ていると評判でもあります。どのくらいすごいのか、賞金について調べてみました。

  • ジャパンC(カップ):5億円
  • 有馬記念:5億円
  • 日本ダービー:3億円
  • 天皇賞春:3億円
  • 天皇賞秋:3億円
  • 宝塚記念:3億円
  • 大阪杯:3億円
  • 皐月賞:2億円
  • 菊花賞:2億円
  • 安田記念:1憶8000万円
  • マイルCS(チャンピオンシップ):1憶8000万円
引用元:WIN!競馬
引用元:中日スポーツ 東京中日スポーツ

本賞金について

賞金が丸ごと騎手に渡るわけではなく、馬主に80%、調教師に10%、騎手に5%、厩務員に5%と配分されるそうです。ちなみに武豊さんが保有する騎手の免許区分は「平地競争」なので、支払われる額はレース賞金の5%です。上の画像は2025年6月「第66回宝塚記念」の時のものです。中央の方が馬主で右側は調教師です。

騎手の収入源

  • 進上金(レース賞金):調教師、騎手、厩舎関係者に対して、賞金を得た馬主が支払う。騎手はレース賞   金の5%(障害競走は7%)を受け取れる。年収の大半は進上金で占めている。一番大きな収入源。
  • 騎乗手当、騎手奨励手当:レースの順位とは関係なく、騎乗すると受け取れる基本的な賃金。
  • 騎乗契約料:騎手が所属厩舎の管理馬に騎乗すると支払われる。所属騎手特有の収入。
  • 調教料:レースに出場する競走馬の調教を行うと支払われる。厩舎に所属していないフリー騎主にとっ   て、貴重な収入源。

全競争の賞金・特定の競争についての賞金

レースに1位から5位以内に入賞すると、騎手は賞金を獲得できます。5位を過ぎると出走奨励金と呼ばれる賞金があり、一般的なレースは8位以内、重賞レースは10位以内に入賞すると獲得できます。

全競争共通の賞金

  • 特別出走奨励金:G1やG2のレースの中でも、11位を超えると支払われる場合のある交付金。
  • 特別出走手当:レースに出場すると獲得できる。参加賞の部類に該当する。

特定の競争の賞金

  • 距離別出走奨励金芝1800m以上の平地競争に出場し、1位から10位までに入賞すると交付される

騎乗手当、騎手奨励手当はレースのランクによって決まっており、約4万円~8万円。1日に複数のレースに出場するので、まとまった収入を確保できるそうです。

本賞金に上記に挙げた賞金が加算される見込みです。

年収について

中央競馬の騎手の平均年収は約1000万円で、一流騎手となると、1~2億円も稼げるそうです。

そして武豊さんの年収は、1憶5590万円(2024年)平均年収は1憶3154万円です。

武豊さん、すごいですね!経験を積んだ証ですね!

シン

賞金は馬券の売り上げから賄っているのかな?

ラン

馬券の売り上げみたいよ!馬券が売れるほど、JRAが儲かるしくみでもあるそうだね。

武豊の浮気騒動があった?

引用元:X

武豊さんには浮気騒動があったのでしょうか。いくつか調べてみました。

藤川京子さん

2006年、武豊さんと女馬券師の藤川京子さんの不倫騒動が報じられたことがありました。藤川京子さんは競馬関連の仕事の依頼を受けてから、武豊さんと食事をする機会ができたようです。セクシー路線のグラビアで有名な藤川京子さんは、競馬について知識が豊富です。

引用元:SPORTS COMMUNICATIONS

さとう珠緒さん

タレントのさとう珠緒さんとの交際の噂もあったそうです。さとう珠緒さんの元事務所社長のお話では、お相手を「T騎手」と表現されているので武豊さんと断言できませんが、2人の交際の事実を握っていると思われます。

さとう珠緒さんは1987年、中央競馬の中継番組「スーパー競馬」の司会がきっかけとなり、競馬に興味を持ち始めます。自らが感じた楽しさを伝えようと、一生懸命競馬の勉強をしました。幼少期におじいちゃんが厩務員の仕事をしていたので、馬を見せてもらった体験もあります。

引用元:NEWS ポストセブンinstagram

美馬怜子(みまりょうこ)アナウンサー

武豊さんは、2015年10月(当時46歳)の時、TBSテレビのお天気コーナーを担当する美馬怜子アナウンサー(当時31歳)との恋愛が報じられました。東京の六本木で手をつなぎ、2人は買い物後、武豊さんの宿泊先へ移動したと言われています。

武豊さんは東京でのレースへ出場の時、自身の利用するホテルと美馬怜子さんの自宅が近所だそうです。

2人の出会いのきっかけは、競馬番組です。2012年3月、美馬怜子さんが出演したテレビ番組「競馬場の達人」で武豊さんも出演し、2014年11月、情報バラエティ番組「うまズキッ!」などでも接触があったのかもしれません。

美馬怜子さんは競馬に詳しく、当日の天気予報に沿った馬場の状態をも考慮した独自のレース予想を発表するほど精通しています。時期が遡りますが、2008年12月には「第53回有馬記念」に参加していますね。

武豊さんの知り合いは、 

「親しくなったのは、ここ1年です。武さんが東京に遠征に来たときに会っているんです。武さんはレース後には打ち上げのつきあいで、馬主などとかなり酒を飲む。美馬さんが酔った武さんを介抱する姿も見かけられてます」

引用元:zak zak by 夕刊フジ

とお話しされており、2015年頃、仲の良い姿が目撃されていることが確認できます。

美馬怜子さんの友人は「彼女、愛犬を飼っていて、しつけが苦手だって言ってたけど、‘‘彼は職業柄、動物の調教をするのが得意だから、ウチの犬もしつけてもらったんだ~’’なんてノロケもしていました」とお話しされており、武豊さんと美馬怜子さんの交際している可能性が感じられますね。

しかし武豊さんは、「たくさんの競馬関係の知人のうちの1人で、特別に親しい関係ということではないですよ」とお話しされており、美馬怜子さんとの仲を認めていません。

美馬怜子さんの所属事務所は、「その日は300勝のお祝いで駆けつけただけ。知人の1人であり、いつも他の人を交えて顔を合わせる関係です」と発表し、親密な仲ではないこと強調しています。

引用元:XX

小浦愛さん

2017年10月、京都市四条河原町の交差点で、武豊さん(当時48歳)と小浦愛さん(当時26歳)の熱愛シーンをFRIDAYが撮影しました。2人はしっかりと手をつないで夜の街へと消えていったそうです。

武豊さんと小浦愛さんの出会いのきっかけは、JRAの調教に関する情報番組「トレセンまるごと情報局」に小浦愛さんが出演し、2016年から2017年まで武豊さんの所属する栗東トレーニングセンターの取材担当であったと考えられます。

2016年12月26日で小浦愛さんのブログ更新が途絶えていたり、「トレセンまるごと情報局」の出演は2017年12月31日で終了していたりしますので、小浦愛さんの仕事とプライベートに影を落としているのかもしれませんね。

フジテレビ系の情報番組「情報プレゼンターとくダネ!」は自宅にいる武豊さんを取材しました。

武は手をつないでいる写真について「いや握手じゃないですか」とコメント。路上キスについては「してない、してない。してないですよ」と否定し。「結構ハグとかはしますよ。男ともキスしますよ。フレンチキスみたいのはしますよ」と笑顔で明かしていた。

引用元:女性自身

番組はさらに、元タレントの量子夫人(49)を取材。「主人、お酒を飲むとフレンドリーになってしまうんですね」と説明し、写真についても「見ないで欲しいと言うので見ないで、この件は解決いたしました」と告白。「きつく、もう怒りすぎたかなっていうぐらい怒りすぎてしまいました」と厳しく叱ったことを明かした。

引用元:女性自身

武豊さんは正直に話せないのかもしれません。この件について奥様の佐野量子さんは、もう触れて欲しくないでしょう。武豊さんと話題に上がった女性たちは、美人で競馬好きな点が似ていますね。そして騒動は、あったということになりますね。

シン

武豊さんの誕生日に美馬怜子さんが結婚を発表したという話は、本当なのかな?

ラン

2019年3月15日、自身のAmebaブログで報告されたみたいよ!
公表したタイミングが武豊さんの50歳の誕生日なのは、偶然なのかな。

武豊さんがデビューした1987年はこんな年だった!

引用元:楽天市場JIJI.COM楽天市場

武豊さんがデビューした1987年は、「野村トーイが卓上ゲーム『ブタミントン』を発売」、「沖縄で太陽が環状に見える金環日食が観測」、「俵万智さんによる歌集『サラダ記念日』がベストセラー」などの出来事があり、話題となりました。

また、この年の流行語(大賞)は、「JR」で日本国有鉄道清算事業団の杉浦喬也(たかや)さんが受賞しました。

武豊のプロフィール・SNS

引用元:YAHOO!JAPAN ニュース

プロフィール

  • 名前:武豊(たけゆたか)
  • 生年月日:1969年3月15日
  • 年齢:56歳(2025年10月現在)
  • 出身地:京都府京都市生まれ滋賀県栗太郡育ち
  • 血液型:O型
  • 趣味:腕時計の収集、音楽鑑賞、映画鑑賞、スポーツ全般
  • 特技:暑くても平気な顔でいること、人脈を築くこと、文章を書くこと
  • 所属事務所:栗東トレーニングセンター
  • 座右の銘:八風不動

SNS・著書・受章歴

SNS

著書

  • 2000年:この馬に聞いた!
  • 2000年:頂上を駆ける 武豊対談集
  • 2001年:この馬に聞いた!最後の1ハロン
  • 2002年:この馬に聞いた!激闘フランス編
  • 2002年:武豊×オリビ・ペリエ 勝つには理由がある
  • 2003年:この馬に聞いた!炎の復活凱旋編
  • 2004年:この馬に聞いた!1番人気編
  • 2005年:この馬に聞いた!大外強襲編
  • 2013年:勝負師の極意
  • 2015年:勝つための思考法 続/勝負師の極意
  • 2018年:名馬たちに教わったこと 勝負師の極意3

コラム

  • 武豊日記

受章歴

  • 2024年:黄綬褒章受章
シン

武豊さんは本を出版されているけど、どんな内容なのかな?

ラン

この馬に聞いた!」シリーズは、週刊現代に連載されたコラムを書籍化したみたいだね!他は対談集やレースでの体験談などかな。

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