元横綱であり、親方から相撲解説者として活躍を続けた北の富士勝昭さん。
ダンディで情に厚く、粋でやんちゃで色気があると多くの人から親しまれてきました。
今回は北の富士さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】北の富士は若い頃イケメン!
10代(1952年〜1962年)
引用元:Instagram
北の富士さんは、1954年(当時12歳)父の経営する料理店に立ち寄った当時の横綱・千代の山から直々に「どうだ、相撲をやって東京見物をしてみないか」と声をかけられたことがきっかけで相撲に興味を持つようになりました。
7人兄弟姉妹の次男として北海道網走郡で生まれ、6歳の頃から軟式野球チーム「萌友会」に入団し、主力投手として活躍していました。その後も軟式野球を続けていましたが、現役横綱からの言葉が忘れられず、いくつもの高校野球部や高校レスリング部からの誘いを断り、中学卒業と同時に出羽海部屋へ入門しました。
上の画像は1956年(当時14歳)の時のものです。初々しさを残しながらも、凛々しい顔をしていることがわかりますよね!この頃は、父の事業失敗のため金銭的に苦しく、千代の山関の後援会世話人に預けられた事もあったそうです。
引用元:Instagram
北の富士さんは、1957年(当時15歳)の時に、「竹沢」という四股名で出羽海部屋から初土俵を踏みました。
入門のために北海道から上京した際、青函連絡船で船酔いしてしまい、体重が激減して場所前の新弟子検査では体重不足として不合格となってしまったそうです。ただ、前場所から施行された『自費養成力士制度』によって前相撲に進み、3月場所は計量直前に大量の水を飲んで体重基準をクリアしました。
この頃北の富士さんは、あまりにも痩せていたことから幕下昇進という出世が遅れ、危うく規約が適用され廃業を余儀なくされる寸前でしたが、それを知って奮起できたそうです。
上の画像は1958年〜1959年(当時16〜17歳)頃のものです。当時の取り口は一本槍で「香車(きょうす)」や「ヤリイカ」とあだ名されていました。痩せていた頃とのことですが、優しい瞳で穏やかな表情が可愛らしく見えますね。
引用元:Instagram
北の富士さんは、1960年(当時18歳)には三段目まで昇進し、四股名も『竹美山』に改名されていました。上の画像はその時のものです。爽やかで魅力的な笑顔のイケメンですね。本当にアイドルのようなかっこよさです。
ところがその夏、釧路巡業で親戚のご馳走に飲みすぎて朝帰りをし、兄弟子から「かわいがり」というリンチに近い猛稽古の制裁を受け、急性虫垂炎と腹膜炎を併発しました。それでも巡業に同行しましたが体調がすぐれず、結局50日間の入院を余儀なくされてしまいました。
この頃の北の富士さんは、「験直しのために四股名を改名してはどうか」という世話人からの勧めで、同年9月場所から『北の冨士』へと改名しています。
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北の富士さんは幼少期、経済的にかなり苦労していたんだって?
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お父さんが事業に失敗してから3回の夜逃げを経験しているそうよ。
「帰っても飯が食えんから、つらくても帰ろうとは思わなかった」と話しているわ。中学卒業後すぐに入門しているのは、そういう背景もあったのかもしれないわね。
20代(1962年〜1972年)
引用元:日刊スポーツ
北の富士さんは、1963年(当時21歳)3月場所でようやく十両に昇進し、11月場所では十両で史上3人目の15戦全勝優勝を達成しました。
1964年(当時22歳)1月に新入幕を果たすと13勝2敗という新入幕力士最多勝の新記録で、敢闘賞を受賞しました。
この頃北の富士さんは、同年3月場所で小結、7月場所には関脇に昇進しています。スピードあふれる動きの取り口を得意とし、『スピード相撲』と称されました。非凡な才能を開花させたようです。
上の画像1枚目は1962年(当時20歳)、2枚目は1965年(当時23歳)の時のものです。甘いマスクは残しつつ、初土俵の頃は脚が長く非力と言われてきましたが、体重が100kg台になると線の細さが無くなり、体が出来上がってきているように感じます。
引用元:Instagram
1966年(当時24歳)大関昇進した北の富士さんは、1967年(当時25歳)、九重親方(元横綱・千代の山)が独立し出羽海部屋から破門された際について行き、九重部屋に所属を変えました。部屋頭となり気楽な立場ではなくなりましたが、怖い兄弟子がいなくなったため、遊び放題になり夜遊びにふけってしまいました。
この時北の富士さんは、「1967年の3月場所で、横綱佐田の山を倒して14勝1敗で幕内初優勝を決めてから、さらに遊びが激しくなった」とお話しされており、過度な緊張と稽古不足で大関の地位でありながら5月場所、7月場所の2場所連続で負け越してしまいます。9月場所では四股名の『冨』に点をつけて『富』と改めて挑み、角番(負け越すと番付の地位から下がること)から脱しました。
上の画像は1967年(当時25歳)12月のものです。『ネオン無常』という曲で歌手デビューを果たし、50万枚を売り上げ大ヒットとなりました。当時人気だった歌番組『夜のヒットスタジオ』にも出演し人気を不動のものにしました。
引用元:中日スポーツ、JIJI.com
大の稽古嫌いで知られた北の富士さんは、1969年(当時27歳)夏の巡業から人が変わったように稽古に打ち込むようになりました。11月場所では2回目の幕内優勝を果たし、その後の九州地方巡業も、他の力士が悪天候と寒波で稽古できなかった中、1人稽古を皆勤したそうです。
この時北の富士さんは、入門するまで1ヶ月間自宅に引き取って面倒を見てくれた村上精一郎さん(1969年12月死去)が脳軟化症で余命幾許もない中「お前が綱を張ることを信じている」激励され、奮起したのであろうと言われています。
その後北の富士さんは、1970年(当時28歳)1月場所で連覇し、横綱審査委員会でも文句なしの評価を受け念願の横綱昇進となりました。
上の画像1枚目は1970年(当時28歳)横綱昇進の時、2枚目は1972年の土俵入りの時のものです。貫禄が出て、キリッとした表情です。横綱としての責任感など表情から今までとは違う緊張感が滲み出ていますよね。
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北の富士さんが1966年(当時24歳)大関に昇進した時は、いろいろなことが異例づくめだったそうだね。
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昇進直前3場所の成績は最低の数字だったそうだから北の富士さんも「まさか自分が大関に昇進するなどとは思っていなかった」と言っていたの。昇進伝達式の朝は熟睡していて部屋の床山さんから叩き起こされて大関昇進を知ったんですって。
何より師匠の8代出羽海夫妻も全くそんなつもりがなく、その日は外出して留守だったんだって!支度も間に合わず、紋付は横綱佐田の山さんから、足袋は足のサイズが同じ柏戸さんから借りて、佐田の山さんが師匠代理で昇進伝達式の立会人を務めたらしいよ!
なんだかバタバタしている風景が目に浮かぶわね。
30代(1972年〜1982年)
引用元:スポニチ
北の富士さんは、横綱として1度は復活するも急速に衰えていき、1974年(当時32歳)、3月場所前の稽古で右膝を痛めたことが致命傷となって現役引退を宣言しました。7月場所で2連敗した1時間後に「体力の限界」と理由を語り翌日に引退届を提出しました。
この時、北の富士さんが引退したことにより、戦前・戦中生まれの横綱経験者は全員引退したことになります。引退相撲は翌1975年2月2日に執り行われました。
上の画像は1975年(当時32歳)2月の時のものです。断髪式後に白のタキシード姿で登場し、自らの持ち歌を披露して会場・関係者を驚かせました。
しかし、のちにこの催しが反感をかい、力士の副業やテレビ出演禁止化につながってしまったそうです。それでもまげ姿からオールバックのヘアスタイルまで似合うなんて、さすがおしゃれな北の富士さんですね。
引用元:日刊スポーツ、日刊スポーツ
北の富士さんは引退後の1975年(当時33歳)井筒部屋をおこし、経営に苦労する中、プレハブを建てて若い力士たちと枕を並べて寝ていたそうです。
1977年(当時35歳)の時に千代の山が亡くなると12代九重を襲名し、自らの井筒部屋と合同させる形で九重部屋を継承して、元弟弟子で当時陥落して十両だった千代の富士を弟子として引き取りました。
さらに、北の富士さんは、1981年(当時39歳)先代から引き継いだ千代の富士を第58代横綱に育てあげました。その時「ウルフ(千代の富士のあだ名)、辞める時はスパッと潔く綺麗に辞めような。チンタラチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と引き際の美学を解いたそうです。
上の画像はどちらも1981年のもので、1枚目は千代の富士が新大関となった時のパレードの様子、2枚目はその優勝祝賀会の時のものです。貫禄が出て、着物ではないコート姿もとても素敵ですね。
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北の富士さん、師匠になってたくさんのお弟子さんを育てたんだよね!
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千代の富士と北勝海の2人の横綱と、関取も9人育て上げたのよ。
千代の富士さんを「狼に似ている」と言って『ウルフ』と名付けたのも北の富士さんね。
ただ、相変わらず遊ぶことが好きで、部屋の門限を午後11時、罰金5000円と定めたけれど、門限破りは師匠自身が1番多かったそうよ。
40代以上(1982年〜2024年)
引用元:埼玉新聞、現代ビジネス
北の富士さんは、1992年(当時50歳)の時に、「師匠は50まで」という言葉を有言実行し、同年引退した千代の富士に部屋を譲り、自らは陣幕を襲名して九重部屋の部屋付きの親方になりました。1993年(当時51歳)北勝海が八角部屋で独立すると移籍し、1986年(当時44歳)の理事就任から6期12年を勤めました。
1998年(当時56歳)高砂一門の理事候補から外れると、あっさりと日本相撲協会を退職しました。北の富士さんは、「もともといつまでもやる気はないよ。地位にすがるのはみっともないだろ」とお話しされていましたが、後年派閥争いに敗れたことを認めるような発言をされています。
1枚目の画像は1987年(当時45歳)、2枚目の画像は1992年(当時50歳)の時のものです。2人の横綱を育て上げるとは、北の富士さんはまさしく名伯楽でした。
引用元:JIJI.com、毎日新聞
1998年(当時56歳)北の富士さんは、協会退職後、NHK大相撲中継の専属解説者となりました。大関以上の経験者が解説者になるケースはテレビ放送開始以来初めてのことだったそうです。的確な解説と歯に衣着せぬ発言、率直でユーモアある語り口で、時に厳しく、時に温かく取り組みを解説して人気を博しました。
北の富士さんは、2010年(当時68歳)から東京中日スポーツで評論家としてコラム『はやわざ御免』を連載スタートしました。スポーツ評論は記者の聞き書きがほとんどの中、自筆で書かれていました。
「先代(横綱千代の山)が唸りながら書いているのを見ていたからね」とお話しされており、もともと作文が好きだった北の富士さんには先代が執筆する姿がカッコよく映っていたそうです。
1枚目の画像は2002年(当時60歳)、2枚目の画像は2016年(当時74歳)の時のものです。60歳の還暦土俵入りは、相撲協会を退職していたため両国国技館が使えず、都内のホテルで執り行われました。どの時代を切り取っても甘いマスクは変わらず、年齢を重ねるごとにますます深みが増してダンディで魅力的になっていますね。
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やっぱり着物を着ている北の富士さんは粋だよね!かっこいいなぁ。
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解説者になってもファンから着物姿を楽しみにされている事もあって、飲みに行っても「今日は着物じゃないんですか?」って言われてしまうそうよ。「そのうちゴルフも着物でやらなくちゃいけなくなるよ」と苦笑されていたわ。
北の富士さんが所属していた”日本相撲協会の歴代横綱”は誰がいる?
引用元:日本相撲協会、日本相撲協会、日本相撲協会
北の富士さんの所属する日本相撲協会の歴代横綱には、第65代横綱貴乃花光司さん、第68代横綱朝青龍明徳さんや第73代横綱照ノ富士晴雄さんなどがいます。
若貴兄弟として知られる若花田さん、貴花田さん。1991年には弟貴花田さんが、夏場所初日に横綱千代の富士を下して初金星を挙げ、兄若花田さんは11月場所で新小結に昇進し、兄弟力士の若貴ブームを巻き起こしました。若い女性ファンが目立つようになったのです。兄の若花田さんも第66代横綱としての本相撲協会の歴代横綱に名を連ねています。
そして、現役の横綱は2025年1月現在モンゴル人力士の照ノ富士さんのみでしたが、1月17日に現役引退を発表しました。
【画像】北の富士の二人の妻との馴れ初めは?死因(病名)は何?
二人の妻との馴れ初めは?
引用元:日刊スポーツ、日刊スポーツ
引用元:X【#きょうの北の富士さん 】
— NHK大相撲(公式) (@NhkSumo) January 11, 2023
「久しぶりに孫と会ったら
じぃじかっこいい!!
って言ってくれたんだよ」
とうれしそうに語る北の富士さん
こんなかっこいいかたは
そうそういません と
思いながらカメラを向けると・・・
何をしてもかっこいい解説は↓https://t.co/NjKrj3FxFp pic.twitter.com/qCCUBfTwRU
1枚目の画像は、1976年9月(当時34歳)1人目の奥様「富子さん」との結婚式のものです。2枚目の画像は、3ヶ月後の部屋の女将さんとして振る舞う富子さんです。馴れ初めなどは特に公表されず、奥様の年齢や子どもの有無、いつ頃離婚されたのかはわかりません。笑顔が可愛らしい女性ですね。
2人目は1985年(当時43歳)11月5日に記者会見で結婚を発表しました。お相手は一般女性と言われていますが、銀座6丁目のクラブ『司』でホステスとして働いていた「松木真里さん」という方だそうで、当時9歳年下の34歳でした。
夜の帝王と呼ばれ、「『おれは銀座で三、四億円は使った』と冗談で新聞記者に話したらパッと広まってね。そこまでいかなくても飲んだのは事実だけど」とお話されていた北の富士さん。
そのことからも出会いは想像できそうですが、北の富士さんはプライベートなことはあまり語らず、2人目の奥様との詳しい馴れ初めなどもわかっていません。お2人は1985年9月にハワイで挙式し、1986年(当時44歳)2月21日に披露宴を行なったようです。当時お2人の結婚は世間を賑わせました。
3枚目の画像は2023年(当時81歳)の北の富士さんです。まだ幼いお孫さんがいらっしゃるようですね。
「私の孫は女の子ばかりだから、少しだけ、うらやましい気がする。私はゴルフの選手にでもなってもらいたいと思っている。娘たちにも言っている。」
引用元:北の富士コラム はやわざ御免
2021年(当時79歳)のコラムでは娘さんがいて、お孫さんも女の子ばかり何人かいらっしゃるようでした。
そして近年は離婚されたのか、別居中なのかはわかりませんが、1人で暮らされていたようです。東京中日スポーツで連載されていた北の富士さんのコラム『はやわざ御免』では、何年も前から1人で食事を作り、晩酌をする様子が度々綴られていました。
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北の富士さんは2度の結婚を経験しているんだね。
ところで、調べてみるともうお1人名前があがるみたいなんだけど・・・
引用元:日刊スポーツ
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そうなの。実は、1974年32歳の時には婚約者がいたのよ。
お相手はバレリーナで、当時13歳も年下だった19歳の羽永共子さん。
親方として独立した時に正式に婚約されたんだけど、結婚には至らず破局してしまったみたい。
現在、羽永さんはミュージカル女優として、ジャズダンスの講師をされているそうよ。
死因(病名)は何?
引用元:Instagram
引用元:NHK
北の富士さんは、2023年(当時81歳)3月場所から病気療養のため、8場所連続で解説を休んでいました。この頃から持病の心疾患や脳梗塞などで入退院を10度ほど繰り返していたそうです。
1枚目は還暦土俵入りの時のもの、2枚目の写真は2024年(当時82歳)7月のものです。「お久しぶりです」と挨拶され、名古屋場所の初日にNHKの中継で見せた、最後の元気な姿でした。11月に入り体調を崩し、12日に療養中だった都内の病院で亡くなりました。享年82歳でした。
葬儀は近親者で済ませ、同年12月18日には八角部屋でお別れの会が開かれました。一般の人も含め、2000人が参列されたそうです。北の富士さんがどれほど多くの人から慕われていたのかがよくわかりますよね。
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1枚目のInstagramは『北の富士櫻屋』さんのものだよね?ちゃんこ鍋屋さんだけど、何か関係があるのかな?
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北の富士さんのお父様が経営されていた小料理屋が原点で、2代目を北の富士さんの弟さんが、3代目を北の富士さんの甥・竹澤一樹さんが継いでいるそうよ。お店には北の富士さんの写真や化粧まわしが多数展示されているんですって。
引用元:Instagram
北の富士さんが大相撲デビューした1957年はこんな年だった!
引用元:朝日新聞、文鉄・お札とコインの資料館、日刊スポーツ
北の富士さんがデビューした1957年は、「日本南極観測隊、南極大陸初上陸」、「日本初の5000円札発行」、「長嶋茂雄さん、巨人入団発表」などの出来事があり、話題となりました。
「日本南極観測隊、南極大陸初上陸」
南極観測上陸隊の西堀隊長は、犬ぞり隊を編成し昭和基地から40km離れたのちに「オングル島」と名付けられる地点に初上陸し、国民の南極への関心を高めました。
「日本初の5000円札発行」
五千円札の発行の前に当初は一万円紙幣を発行予定でしたが、まだ戦後まもない日本では1万円と言う額面は現在の何十万円もの価値があり、高額紙幣発行に対する国民の抵抗を和らげるための措置として、聖徳太子の五千円札を先に発行したとも言われています。
「長嶋茂雄さん、巨人入団発表」
当時、東京六大学記録を更新する8本塁打を放つなど、人気と実力を兼ね備えた立教大学の選手だった長嶋茂雄さんがプロ野球・巨人の入団会見を行いました。翌年の1958年に入団し、プロ野球の人気が加熱したと言われています。
また、この年の流行語は、「カックン」と言う言葉で、軽い失望や落胆を示す言葉として若い人たちの間で広く使われました。当時の日常会話やメディアなどで広く使われたそうです。また、「デラックス」は「豪華」、「高級品」を印象付けるために商品名などで多く使われました。
北の富士のプロフィール・改名歴
引用元:中日スポーツ
プロフィール
- 名前:北の富士勝昭(きたのふじかつあき)
- 本名: 竹澤勝昭
- 生年月日:1942年3月28日
- 年齢:享年82歳(2024年11月12日逝去)
- 出身地:北海道
- 血液型:AB型
- 趣味:俳句・ジョギング・ゴルフ
- 好きな食べ物:ステーキ
- 健康法:股割り・ストレッチ
改名歴
- 竹沢勝昭(たけざわかつあき)1957年1月場所 - 1959年3月場所
- 竹美山勝明(たけみやまかつあき)1959年5月場所 - 1960年7月場所
- 北の冨士勝明(きたのふじかつあき)1960年9月場所 - 1967年7月場所
- 北の富士勝明(きたのふじかつあき)1967年9月場所 - 1968年1月場所
- 北の富士洋行(きたのふじひろゆき)1968年3月場所
- 北の富士勝昭(きたのふじかつあき)1968年5月場所 - 1971年1月場所
- 北の富士勝晃(きたのふじかつあき)1971年3月場所 - 1972年5月場所
- 北の富士勝昭(きたのふじかつあき)1972年7月場所 - 1974年7月場所 (NHK解説の場合も同名)
- 井筒勝昭(いづつかつあき)1974年7月9日 - 1977年11月4日
- 九重勝昭(ここのえかつあき)1977年11月4日 - 1992年4月1日
- 陣幕純樹(じんまくじゅんき)1992年4月1日 - 1994年11月6日
- 陣幕克昭(じんまくかつあき)1994年11月6日 - 1998年1月31日(退職)
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北の富士さんは、こんなに多くの名前を使って相撲の世界を引っ張ってこられたんだね。変わった改名とかあったのかな?
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1968年の3月場所で使用した『北の富士洋行(きたのふじひろゆき)』の名前は、姓名判断で『勝明』の名前が「交通事故に遭う」と言われて「なら、せめて海外旅行に行きたいなぁ」と思って『洋行』に改名したと言われているそうよ。
やっぱりユーモアにあふれていた方だったのね。