ヘビー級プロレスラーとして活躍を続けていたハルク・ホーガンさん。
少年の頃からボディビルで体を鍛え、理想に描いていたプロレスラーになりました。
自身の衣装を破ったり、試合に勝つと「イチバァーン」の叫び声を上げたりして個性を表現し、観戦者がプロレスを楽しめるようなパフォーマンスを取り入れています。
親日家でもあり、アントニオ猪木さんを始め、数々のレスラーと対決してきました。
今回はハルク・ホーガンさんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】ハルク・ホーガンは若い頃イケメン!
20代(1973年~1983年)
引用元:映画ナタリー、映画ナタリー
ハルク・ホーガンさんは、アメリカ合衆国東部のジョージア州オーガスタ市に生まれました。少年の時から立派な体格に恵まれ、野球のリトルリーグでは打撃力が強く、投手としても活躍しました。
10代に南東部のフロリダ州タンパ市に引っ越し後、重量挙げを始めました。高校生になるとボディビルディングを始め、レスリング部に入部しました。南フロリダ大学ではロックバンド「ラッカス」に所属しました。ここでは低音域のベーシストを担当しています。
ハルク・ホーガンさんは「音楽少年でバンドで演奏もしていた。バンドのライブにプロレスラーが何人か来て、いつのまにか僕らのライブにはプロレスラーが多かった」とお話しされており、プロレスラーを目にする機会があったそうですね。
プロレスラーのビリー・グラハムさんのようになりたいと思い、プロレスラーを将来の職業に定めました。米国在住の日本人トレーナー、ヒロ・マツダさんに師事します。
1977年8月、リングネームを「スーパー・デストロイヤー」と名乗り、覆面レスラーとして登場しました。この時ブライアン・ブレアーさんと対戦しています。
1979年12月、(当時24歳)の時、WWF(現在のWWE)に初参加します。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて開催されたデビュー戦にて、テッド・デビアスさんに勝利しました。この当時からリングネームを「ハルク・ホーガン」に改名し、フレッド・ブラッシーさんをマネージャーに待ち受けました。
ハルク・ホーガンさんは1980年5月(当時26歳)の時、WWFと協働の新日本プロレスが開催している「MSG(マディソン・スクエア・ガーデン)シリーズ」のため、初めて来日しました。ストロング小林さんに勝利し、シングルマッチではアントニオ猪木さんと対戦しています。
この試合はテレビで中継されており、ハルク・ホーガンさんの勇姿は日本全国で観戦された模様です。
上の1つ目と2つ目の画像は、1982年5月(当時31歳)公開の映画「ロッキー3」のロッキー・バルボア(シルヴェスタ・スタローンさん)とプロレスラー、サンダー・リップス(ハルク・ホーガンさん)が戦うシーンです。身長差のある2人の接戦です。それぞれの表情が険しく、苦しそうですね!
本作は1979年公開の映画「ロッキー2」の続き物で、プロボクシング界を這い上がるロッキーの姿を描いた作品です。
ハルク・ホーガンさんは「俺はスタローンが繰り出したパンチをさばいて、グラウンドに引きずり込んだ。新日本参戦時に培った、本物のレスリング・ムーブだ」とお話しされており、映画で披露したパンチは新日本プロレスで身に着けた技であったことが確認できます。
シルヴェスタ・スタローンさんは「彼は実にすばらしく、信じられないくらいのスキルは『ロッキー3』を信じ難いほど特別なものにしてくれた」とお話しされており、撮影当時のハルク・ホーガンさんの技が見事であったことが確認できます。映画「ロッキー3」の出演でハルク・ホーガンさんの人気は急上昇したのでした。
引用元:Number Web、Number Web
ハルク・ホーガンさんは、1982年新日本プロレスにスタン・ハンセンさんが所属後、新日本プロレスの花形外国人選手となりました。
上の1つ目と2つ目の画像は同年12月(当時29歳)の時、新日本プロレス開催の「MSG(マディソン・スクエア・ガーデン)第3回タッグリーグ戦」にて、アントニオ猪木さんと協力して戦った時のものです。このリーグ戦ではダークホースのカーン組が全力で頑張りますが、猪木組が優勝しています。お2人ともイケメンですよね!

ハルク・ホーガンさんの「ハルク・ホーガン」とは、プロレス用のリングネームだと思うけど、どのように付けたのかな?

それは、WWEの創立者ビンク・マクマホン・シニアさんの意見でハルク・ホーガンになったみたいよ!
テレビドラマ「超人ハルク」から便乗したザ・ハルクを元にしているようだから、同ドラマの主人公のようになれますようにと希望が込められているかもしれないね。
30代(1983年~1993年)
引用元:日刊スポーツ、スポニチ Annex
ハルク・ホーガンさんは1984年1月、(当時30歳)の時、ニューヨークのMSG(マディソン・スクエア・ガーデン)にてWWF世界ヘビー級王者でイランのアイアン・シークさんと対戦しました。勝利をつかみ、WWF世界ヘビー級王座を初めて獲得しました。
上の画像は花束贈呈のアントニオ猪木さんと受け取っているハルクホーガンさんです。喜びを分かち合う2人は、仲も良さそうです。チャンピオンベルトが目の前にあると、頂点を実感しやすいですね。
ハルク・ホーガンさんは、同年、MTVにシンガーソングライターのシンディ・ローパーさんと出演しました。MTVの出演により、プロレスに見識のない人々にもハルク・ホーガンさんの名前は浸透していきました。2つ目の画像はシンディ・ローパーさんを抱きかかえるハルク・ホーガンさんです。軽々と持ち上げているように見えました。
ハルク・ホーガンさんは、1985年3月、当時31歳の時、MGSにて「レッスルマニア第1回大会」が開催され、出場しました。「ハルカマニア」と呼ばれるホーガンさんのファンに影響を受けて、1年で最も豪華なイベントとして企画されました。ミスターTさんとコンビを組み、ロディ・パイパーさんやポール・オンドーフ組と戦いました。
引用元:東スポ WEB
ハルク・ホーガンさんは、1987年3月(当時33歳)の時に、ポンティアック・シルバードームにて開催された「レッスルマニアⅢ」でフランスのアンドレ・ザ・ジャイアントさんと「世紀の対決」をしました。ヘビー級王座を掲げて、236㎏のアンドレ・ザ・ジャイアントさんにハルク・ホーガンさんがボディスラムを仕掛けて、勝ちました。
この対戦では9万3173人の客動員数を記録し、シルバードームは大きな歓声で沸いています。上の画像はアンドレ・ザ・ジャイアントさんと戦うハルク・ホーガンさんです。自身よりも大きな相手に一生懸命でした。
プロレス技をご紹介します。
ボディスラム:投げ技の1つで、日本名は抱え投げ。
引用元;YouTube
ハルク・ホーガンさんは、1990年(当時37歳)の時に、日立製作所のCM「BIGFLOW 白くまくん」に出演しました。CM「BIGFLOW 白くまくん」は、神様のような装いのハルク・ホーガンさんが子どもたちの望みに応える内容です。
男の子の「もっと暖かくなるエアコンに変えてください」のお願いにはエアコンを横に引き伸ばし、快適な場所を拡大して叶えます。女の子の「すぐ暖かくなるエアコンがいい」のお願いには速く暖かくなる機能を追加して、叶えました。
この時ハルク・ホーガンさんは、「ホソナガー」とお話しされており、願い事の度に奮起したことが確認できます。
上のYouTube動画は「BIGFLOW 白くまくん」のCM動画です。よかったらご覧ください。

ハルク・ホーガンさんは、アントニオ猪木さんと一緒にいる、1984年1月の一番Tシャツを着ている画像の当時も「イチバァーン!」と言っていたのかな?

右手人差し指を高く上げて叫ぶパフォーマンスは、1981年から始めたみたいよ!1984年の試合ではWWF世界ヘビー級王座に輝いたから、紛れもなく叫んでいるよね。
40代(1993年~2003年)
引用元:YAHOO!JAPAN ニュース
ハルク・ホーガンさんは、1993年5月5日(当時40歳)の時に、福岡ドームにてグレート・ムタこと、武藤敬司さんと対決しました。マサ斎藤さんやタイガー服部さんがハルク・ホーガンさんと交流があり、試合の場が設けられたそうです。
武藤敬司さんは「初対面同士の人間が縄梯子を使った攻防をするなんて、普通じゃ考えられないだろう。言葉も交わしたことがない2人で、この攻防を作り上げるわけだからね。」とお話しされており、ハルク・ホーガンさんと初めての試合で縄梯子を使用したことが確認できます。照明設置用の梯子でターザン殺法のアイデアが浮かんだ武藤敬司さんでした。
上の画像は武藤敬司さんと試合の時のものです。初めての対戦とは思えないくらい、2人の動きが揃っていました。
武藤敬司さんとは同年9月23日に横浜アリーナ、9月26日に大阪城ホールでも対戦しています。
引用元:YAHOO!JAPAN ニュース
ハルク・ホーガンさんは、1996年7月(当時40歳)の時に、善玉のベビーフェイスから悪役のヒールへ転身し、WWFから移籍のケビン・ナッシュさんとスコット・ホールさんとともにnWo(ニュー・ワールド・オーダー)を結成しました。「ハリウッド・ハルク・ホーガン」と名乗り、従来の赤&黄の服装から黒1色に新しくしています。
上の画像はnWoの衣装を身に着けたハルク・ホーガンさんです。雰囲気が変わりましたね。
引用元:CNN.co.jp
ハルク・ホーガンさんは、同年3月、カナダのトロント、スカイドームにて開催された「レッスルマニア第18回大会」に出場しました。WCW(ワールド・チャンピオンシップ・レスリング)からWWEに9年ぶりに復帰したホーガンさんと当時のエース、ザ・ロックさんの対戦は様々な表現で例えられ、注目を浴びています。
ハルク・ホーガンさんはハルクアップを始め、3パンチ、ビッグブーツ、レッグドロップという強力な技を仕掛けますが、ザ・ロックさんがカウント3の前に反撃したシーンは大歓声に包まれました。この対戦はザ・ロックさんがロック・ボトムを2回決めて、ピープルズ・エルボーでフォール勝ちを決めています。
上の画像は2002年3月、若いザ・ロックさんにラリアットで攻撃するハルク・ホーガンさんです。多くの観客の前でも、素晴らしい集中力を発揮していました。
プロレス技をまとめてみました。
- レッグドロップ:ギロチンドロップとも呼ばれ、ジャンプをして、仰向けにダウンしている相手の喉に片 脚を打ち付ける技。
- ビッグブーツ:16文キックとも呼ばれ、相手の顔面を足の裏で蹴り、リング上にダウンさせるための技。ビッグブートとも呼ばれる。
- ロックボトム:ザ・ロックさんが編み出した技の1つで、相手に打撃を与えることを重点に置いた、決着 を付ける時に用いられる技。
- ピープルズ・エルボー:ザ・ロックさんが編み出した技の1つで、肘攻撃の一種。
- ラリアット:腕をまっすぐ伸ばし、対戦相手の上半身に打ち付ける打撃技。
ハルク・ホーガンさんは、同年「レッスルマニア第18回大会」終了後、nWoのスコット・ホールさんとケビン・ナッシュさんから暴力を受け、グループを脱退しました。次の日からベビーフェイスに復帰しています。
引用元:X、日刊スポーツハルク・ホーガン氏の訃報を知り驚きました。
— issy (@issy53235195) July 25, 2025
私の永遠のヒーローでした。
ご冥福をお祈りします。
数年前に友人のホーガン佐藤氏が私製作のマスクをホーガン選手に届けてくれました。サイズ感が合わないのに着用して頂けました。
そのうちの一枚にサイン入れて頂きました。
忘れられない思い出です。 pic.twitter.com/Eh65GCn3eI
ハルク・ホーガンさんは、2003年5月(当時49歳)の時、覆面をかぶり、ミスターアメリカを演じました。上の1つ目のXの画像は覆面を身に着けたハルク・ホーガンさんです。ハルク・ホーガンさんと親しい佐藤義一さんから手元に届いたそうです。かっこよく変身できていますね!
同年10月(当時50歳)の時に、東京ドームにて新日本プロレス「ULTIMATE CRUSH」に出場しました。10年ぶりの来日で、この大会で日本での試合は最後となりました。WWEを脱退したフロリダのハルクホーガンさんの元に、新日本プロレスの現場責任者の蝶野正洋さんは、交渉のために訪問しています。
蝶野正洋さんは「リングから降りたホーガンってフランクで優しい人でしたよ」とお話しされており、ハルク・ホーガンさんは気さくな人柄であったことが確認できます。ホーガンさんのビジネスマンぶりにも、感心したそうです。
2つ目の画像は蝶野正洋さんを倒し「イチバァーン!」と叫んでいる時のものです。ナンバーワンになった気分のホーガンさんでした。

プロレスにはベビーフェイス(善玉)とヒール(悪玉)という役割があるけど、どんな感じだったのかな?

それは、プロレス試合上の物語で善玉、悪玉をレスラーに与えて、対戦で演じるみたいよ!プロレスラー単独または、チームになっているそうだね。
50代・60代・70代以上(2003年~)
引用元:日刊スポーツ
ハルク・ホーガンさんは、2007年5月(当時53歳)の時に、日本にて娘のブルック・ホーガンさんの歌手デビューのために、来日しました。同時期にデビューアルバム「アンディスカヴァード」を発売しています。
ブルック・ホーガンさんは「ビューティフル・トランスフォーメーション」と「ロウ・ライダー・ジーンズ」の2曲の作詞に挑戦しました。「ビューティフル・トランスフォーメーション」は2、3年前、自身の多感な時期について書いた曲です。「ロウ・ライダー・ジーンズ」は嬉しくて逸脱した気持ちの時に書いたパーティ・ソングだそうです。
作曲とプロデュースはビヨンセさんとも関わりのある、スコット・ストーチさんが担当です。
この時ブルック・ホーガンさんは、「ただ仕事を任せるのではなく、よく話し合って、私という人間を知ってもらったわ。」とお話しされており、アルバム制作にあたり、スコット・ストーチさんとコミュニケーションを多くとったことが確認できます。
上の画像は来日時のインタビューの時のものです。プロレスでは見られない、お父さんの顔でした。
引用元:AFP BB News
ハルク・ホーガンさんは、2018年11月(当時63歳)の時、サウジアラビアのリヤドにて開催された「クラウン・ジュエル」に出場しました。入場曲「リアル・アメリカン」と共に登場し、2015年以来WWEへ復帰しました。赤色のバンダナ、タンクトップと黄色いサングラスをかっこよく着用し、観客の声援に喜ぶハルク・ホーガンさんでした。
ハルク・ホーガンさんは、「一つ俺に言わせてくれブラザー!WWEユニバースやハルカマニア(ホーガンのファン)の前に立つことができて気分がいいぜ!」とお話しされており、久しぶりのリングに上機嫌であったことが確認できます。
上の画像は同年「クラウン・ジュエル」に出場した時のものです。月日が経っていてもムキムキな筋肉でした。
引用元:instagram
ハルク・ホーガンさんは、2023年9月(当時70歳)の時に、3回目の結婚をしました。お相手はヨガインストラクターのスカイ・デイリーさんという女性で、ハルク・ホーガンさんより25歳お若いそうです。同年7月に婚約後、9月に挙式を済ませたばかりで、新婚ほやほやですね。
この時ハルク・ホーガンさんは、「勤労感謝の日、おめでとう、マニアック」とお話しされており、アメリカでは9月第1月曜日は「労働者の日」で勤労感謝の日に該当し、休日であったことが確認できます。
上の画像は夫婦でお揃いの洋服を着ている時のものです。幸せそうな笑顔でした。

ブルック・ホーガンさんのお母さんは、ハルク・ホーガンさんの何番目の奥様だったのかな?

最初の奥様のリンダさんという方みたいよ!ブルック・ホーガンさんには、ニックさんという弟がいるそうだね。
【画像】ハルク・ホーガンの死因はなに?猪木との事件はなんだった?
ハルク・ホーガンの死因はなに?
引用元:読売新聞オンライン、VOI
2025年7月、ハルク・ホーガンさんは突然亡くなりました。死因は一体なんだったのでしょう。
2025年7月24日午前9時頃、フロリダ州クリアウォーターの自宅に消防隊と州警察が到着した時、ホーガンさんの心肺が停止していました。直ちに周辺の病院に運ばれましたが、約2時間後の午前11時17分死亡が見届けられました。死因は急性心筋梗塞と診断されています。
引用元:東スポ WEB
亡くなる前日、プロレス・マネージャーで親友のジミー・ハートさんと電話で話しており、一晩で病状が進行したと言われています。ジミー・ハートさんは「天国に着いたら、友人みんなと会うだろう」とお話しし、涙を流しながらも天国へ旅立ったホーガンさんを思いやりました。
ハルク・ホーガンさんは、2025年5月に首、6月には心臓の手術を受けていました。監察医事務所は不整脈(心房細動)という不規則な脈を刻み心臓の停止リスクを高める心拍障害をホーガンさんは長年持っていたことを発見しています。血液のがん(慢性リンパ性白血病)も患っており、死亡に至ったのはこれらの症状が原因と言われています。
奥様のスカイ・デイリーさんのお話によると、2025年の手術の時に横隔神経が損傷を受けた可能性もあるそうです。
警察の報告書は「非公開」とされているが、関係者によれば、ハルクの呼吸が止まった際、作業療法士が自宅に居合わせており、駆けつけた警官に対し、最近の手術で横隔神経が「損傷した」ため、医療過誤の被害者になったと証言したという。
引用元:YAHOO!JAPAN ニュース
医療ミスが死の引き金になったのではないかと、疑念を持っていますね。
また筋肉増強剤や痛み止めを使用していたとも言われており、心臓などへ負担をかけていたのでは?という声もありました。
ハルク・ホーガンさんのリングドクターは、
「競技に適した体づくりのための飲食と運動は、年を経るにしたがい響いてくるのです。一般的にレスラーを含めたアスリートの死因の多くは、心疾患です。がん死は少ないのです。このことが、それを物語っていると思います。」
引用元:yomiDr.
とお話しされており、日常的に行われていた体づくりの影響が年齢的に表れたことを示唆しています。
リングドクターのお話のように急性心筋梗塞が有力だと思いますが、複数の要因が関連しているのかもしれませんね。

ハルク・ホーガンさんには病歴があるようだけど、いつ頃から体力に影響を及ぼしてしまったのかな?

それは、2023年手術で下半身の感覚を失い、歩く時は杖が必需品になったとプロレスラーで親友のカート・アングルさんは証言されたみたいよ!
ホーガンさんの亡くなる前の病状については諸説あって、カート・アングルさんの言葉を否定する人もいたそうなの。手術を何度も受けているそうだから、いろいろな症状が出ていたのかもしれないね。
ハルク・ホーガンと猪木との事件はなんだった?
引用元:Number Web
引用元:Number Web
過去に起きたハルク・ホーガンさんと猪木さんとの事件は、なんだったのでしょう。
1983年6月2日、蔵前国技館にて、ハルク・ホーガンさん対アントニオ猪木さんの試合が行われました。アックスボンバーをハルク・ホーガンさんが仕掛けると、猪木さんは鉄柱にぶつかり、脳震とうを起こしました。しかも口から舌を出した状態になり、失神してしまったのです。その結果、猪木さんはKO負けとなりました。
実際は猪木さんの舌は出ていませんでした。舌による窒息を危惧したセコンド坂口征二さんの指示により、プロレスラーの木村健悟さんか星野勘太郎さんが猪木さんの舌を引き出したそうです。
リングドクターの富家孝さんは脈を診て、血圧を測定しました。血圧はそれほど下がっておらず、頭のけがも程度が軽いことを確認します。意識を消失しているので「これはまずい」と救急車を呼び、東京医科大学病院に運ばれました。蔵前国技館は混乱し、一連の様子をメディアでも大きく報道さており、プロレス史に大きく残る事件となりました。
病院にてレントゲンを受けた猪木さんについて、リングドクターは「一過性脳震とう」と考えを示し、CTスキャンでも異常は見付かりませんでした。
ハルクホーガンさんは、
「チャンピオンになったのは嬉しかったけど、その代償は大きかった。ライバルであり友人でもあるイノキを病院送りにしてしまったんだからな。それから彼は半年間も言語障害が残ったそうだよ。今となっては笑って話せるけど、あのときはショックだった。」
引用元:YAHOO!JAPAN ニュース
とお話しされており、猪木さんの失神に傷心であったことが確認できます。
猪木さんの弟啓介さんは、「兄貴は、試合の前日に長州らが会見してフリー宣言を行った、その話題を潰したかったのではないかと思います。実際、失神事件のインパクトが大きすぎて、長州らの宣言は完全にかき消されましたからね」とお話しされており、事件の余波で長州さんたちの話題を脇に押しやることが目的だったのではないかと推測されています。
騒動の前日である同年6月1日、長州力さんとアニマル浜口さんが新日本プロレスを退社する宣言をしており、猪木さんから見て都合の悪い出来事だったそうです。タイガーマスク(佐山聡)さんも団体を離れようとしていました。
猪木さんは騒動の真相について語られておらず、捉え方はファンに任されているそうです。

事件について猪木さんの自作自演説もあるけど、どうだったのかな?

弟の啓介さんは「私は兄貴から本当のところを聞いたことはなく、真相は分かりません。ただ、失神を演じた可能性を否定はしません」とお話しされているから、猪木さんは誰にも話せなかったみたいよ!
ハルク・ホーガンさんがデビューした1979年はこんな年だった!
引用元:土木学会関東支部新潟会、SAGA TV KachiKachi plus、キャノンカメラミュージアム
ハルク・ホーガンさんがデビューした1979年は、「上毛高原駅と越後湯沢駅間を結ぶ上越新幹線大清水トンネルが完成」、「国公立大学にて共通一次試験第1回目実施」「キャノンが自動焦点内臓カメラ『オートボーイ』を発売開始」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語は、「ナウい」が流行しました。英単語「now」を形容詞に変化させて、若者間の言葉遊びの一部として誕生し、注目されています。
ハルク・ホーガンのプロフィール・SNS
引用元:東スポ WEB
プロフィール
- 名前:ハルク・ホーガン(英語表記:Hulk Hogan)
- 本名:テリー・ユージーン・ボレア(英語表記:Terry Eugene Bollea)
- 生年月日:1953年8月11日
- 年齢:享年71歳(2025年7月24日逝去)
- 出身地:アメリカ合衆国ジョージア州オーガスタ生まれフロリダ州育ち
- 趣味:車の所有、海水浴、プールで遊泳、ギターを弾くこと
- 特技:ギターの演奏、ビジネスの交渉
- 所属事務所:WWE(ワールド・レスリング・エンターテインメント)
SNS・著書・受賞歴
SNS
- X(旧Twitter) URL:https://x.com/HulkHogan
Another epic karaoke night in the books at Hogan’s Hangout! pic.twitter.com/Qrp6Cc2XvZ
— Hulk Hogan (@HulkHogan) February 4, 2025
- Instagram URL:https://www.instagram.com/hulkhogan/
- オフィシャルサイト URL:https://hulkhogan.com/

- 公式ブログ URL:https://hulkhogan.com/blog/

著書
- 2003年:ハリウッド・ハルク・ホーガン/ハルク・ホーガン自伝(マイケル・ジャン・フリードマンさん
との共著)
受賞歴
- 1983年:プロレス大賞 最優秀外人賞
- 1991年:プロレス大賞 年間最高試合賞

ハルク・ホーガンさんはビールが好きなのかな?1982年「MSG第3回タッグリーグ戦」の後、アントニオ猪木さんの隣りでも飲んでいたそうだね。

おいしそうに瓶から直接飲んでいたから、好きみたいだね!
2024年6月、ハルク・ホーガンさんは「リアル・アメリカン・ビール」の事業を開始したそうなの。