お笑い芸人としてだけでなく、俳優・MC・ラジオパーソナリティとしても独自の存在感を放ち続けている矢作兼さん。
サラリーマンから芸人への転身、コンビ「おぎやはぎ」としての遅咲きのブレイク、そして40代での結婚——。
常に“自分のペース”を守りながら、着実に歩みを進めてきました。
今回は、そんな矢作兼さんの若い頃を振り返りながら、「遅咲きでもいい」「自分らしく生きるって、こういうことかもしれない」と感じられるような人生の軌跡を紐解いていきます。
飄々とした姿の裏にある、静かな情熱と人間力。その魅力に、今あらためて迫ります。
【画像】矢作兼は若い頃イケメン!
10代(1981年~1991年)
矢作兼さんは、1971年9月11日に山梨県・富士吉田市で誕生しました。そして、976年頃(当時5歳)の時に、両親の離婚を経験し、母と姉との3人で東京都豊島区に移り住み、父親とはほとんど会わずに育つ幼少期を過ごしました。
この時、矢作兼さんは、「ギリギリ5、6歳までは時々会ってたかな?競馬場やパチンコ屋に連れて行ってもらった記憶はあります。でも、大人になってからは一切知らない。なんなら感情もないよ。会ってもわかんないと思う」とお話しされております。
離婚という家庭の大きな変化を幼いながらに受け入れ、父との関係を断ち切るような距離感の中で成長していたことが確認できます。
矢作兼さんは、1980年頃(当時9歳)の時に、小学校の文化祭で初恋の相手に気持ちを知られてしまい、それがきっかけで最後まで話しかけられなくなったという経験をしました。
この時、矢作兼さんは、「最悪だったよ。中学まで一緒だったけど、一言もしゃべれなかった」とお話しされており、人間関係に対する繊細さや、“距離の取り方”に対する独特な感覚が育まれたことが確認できます。
引用元:X矢作「出会いは高校3年の時です」蛍原「おぎやはぎは幼稚園くらいから一緒のようなイメージだね」宮迫「空気感とかね」矢作「小木の幼稚園時代を俺ほど知らない人はいない」小木「俺の幼稚園時代を矢作ほど知らない人はいない」 pic.twitter.com/nEgw4m7wM6
— おぎやはぎbot (@ogiyahagibot) January 7, 2015
矢作兼さんは、1987年頃(当時16歳)の時に、高校で同級生だった小木博明さんと出会い、のちに「おぎやはぎ」としてコンビを組むことになる友人関係を築き始めました。当時はまだ芸人になるつもりはなく、ただのお笑い好きな高校生だったといいます。
この時矢作兼さんは、「もともとお笑いは好きだったけど、そんなつもりはなかった」とお話しされており、さらに、「高校3年で同じクラスになって、僕から話しかけたのがきっかけですね」と出会いの瞬間を振り返っています。
矢作さんは高校1年の頃から通学電車で小木さんのことを「すごく注目していた」と明かし、「負けたくないって気持ちがあったのかも。『先にしゃべりかけたほうが負けだ』みたいな(笑)」と語っております。当初はお互いに距離を保っていたものの、クラスメイトになったことで自然に会話が始まり、友情が育まれていったことが確認できます。
上の画像は矢作兼さんが1989年(当時18歳)の時に小木さんと一緒に撮った時のものです。凄く落ち着いていて大人っぽく見えますね。当時モテててたんだろうなと感じられますね。高校時代のこの出会いが、後に“運命のコンビ誕生”につながるとは、本人たち自身も想像していなかったことでしょう。

矢作兼さんの幼少期ってどんな感じだったかな?

それは、「人前に出るのが好き」「明るい性格で周りを楽しませたい」という気持ちから、放送委員をしたり、剣道や野球などいろんなことに積極的に取り組む子どもになったみたいよ!
小学校3年生のときには、うっかり姉のパンツをはいて登校しちゃったというエピソードも、矢作さんが笑って話しているくらいだから、ユーモアも人懐っこさも、当時から自然ににじんでいたのかもしれないわね。
20代(1991年~2001年)
引用元:X設楽「おぎやはぎのデビュー当時の宣材写真、矢作さんもさることながら、小木さんに注目して頂きたい」石橋「怖ぇ~な小木~!」設楽「こんな奴らが俺らを笑わせようとしてくる」pic.twitter.com/pFSu0YZTnO
— おぎやはぎbot (@ogiyahagibot) January 12, 2021
矢作兼さんは、1994〜1995年頃(当時23〜24歳)の時に、貿易会社でサラリーマンとして働きながら、中国の上海もしくは西安への赴任が決まりかけていた時期に、「芸人になるなら今しかない」と感じ、会社を辞めて芸の道に進むことを決意しました。
この時矢作兼さんは、「中国赴任が決まりそうだったけど、このままだとやりたいことができなくなると思って。決めるなら今だと会社を辞めた。本当にやりたいことってわけでもなくて、軽い気持ち。一大決心でもなかったです」とお話しされております。
このことから将来を見据えた現実的な判断と、自分の感覚に正直な行動力がうかがえることが確認できます。
さらにその頃、偶然出会った極楽とんぼ・加藤浩次さんとの会話を通じて、「売れかけてる芸人さんと話すと普通はレベルの差を感じるじゃない?でも加藤くんとはそれがなかった。“あれ?俺も意外とイケるんじゃない?”って思った」とも語っています。
上の画像は1995年(当時24歳)のデビュー当時のものです。今のイメージとは違ってオラオラ系みたいですね。恐らくお二人でふざけて撮ったのだと思いますが。
矢作兼さんは、1996年頃(当時25歳)の時に、芸人として初めて舞台に立ったものの、ネタがまったくウケずに沈黙してしまうという苦い経験をしました。
この時矢作兼さんは、「ネタがウケなくてスベって。そのあとエンディングがあるんですけど、俺らは黙ってた」とお話しされており、芸人として駆け出しの頃に味わった“挫折”の空気感を振り返っています。
その際、先輩である加藤浩次さんから「ネタは別にいいんだよ。その後だよ、取り返せ」とアドバイスを受けたことを明かし、「あのアドバイスが結果良かった」と語っており、後に“芸人としての軸”となる姿勢を教わった出来事だったことが確認できます。

矢作さんの眼鏡キャラの誕生のきっかけって何なのかな?

それは、「コンビとして見た目にインパクトを出したほうがいい」という加藤浩次さんの感覚という理由から、「矢作さんも眼鏡をかけて“ダブルメガネ”にする」というアイデアになったみたいよ!
実は、矢作さん自身はもともと眼鏡をかけていなかったんだけど、
加藤さんのひと言でそのスタイルが決まり、いまや『おぎやはぎのメガネびいき』という冠ラジオ番組名にもなってるくらい、2人の象徴的なアイテムになったの。

矢作さんのお笑いに対する信条って、どんな感じなのかな?

それは、「辞めたくないからこそ、自分にとって無理のない目標を少しずつ設定する」というスタンスという理由から、「毎年『これができなかったら辞めよう』という小さな目標を掲げながら、芸人としての道をゆっくり歩んできたみたいよ!
矢作さんは、「芸人が苦労話なんてしちゃいけないでしょ」「せっかく脱サラしたのに、またサラリーマンみたいなことしたくないじゃん」とも語っていて、常に“自分らしく、自然体であること”を大切にしてきたことが伝わってくるわね。
さらに、「極楽の加藤さんに出会って、『俺らもできるかも』と思えた」というように、最初の一歩も“気負いすぎない感覚”から始まっているのが、矢作さんらしいわね。
30代(2001年~2011年)
引用元:TikTok@namayasai_726 #m1グランプリ2001 #準決勝 #おぎやはぎ #m1グランプリ ♬ 5分無音 - にこ(ノ゚0゚)ノ
矢作兼さんは、2001年(当時30歳)の時に、第1回『M-1グランプリ』でおぎやはぎとして決勝進出を果たし、全国的な注目を集めました。さらにその後、『踊る!さんま御殿!!』『めちゃ×2イケてるッ!』などの人気テレビ番組にも出演したことで、世間に広く認知されるようになりました。
この時矢作兼さんは、「ネタって何だ?というところからのスタートだったし、最初はお客さんにはウケなかった。でも芸人仲間が“面白いね”って言ってくれたことで、それが自信になった」と当時を振り返っています。
また、「“芸人とはこうあるべき”みたいなことをやるのが恥ずかしかった」とも語っており、自分たちらしさを貫いたスタイルが評価される土台になっていたことが確認できます。
さらに本番10分前には、予定していた漫才ネタを「営業でやっていたものを晴れ舞台で披露するのが恥ずかしくなった」として急遽変更したそうです。
上の画像は、2001年(当時30歳)の時に、第1回『M-1グランプリ』で決勝進出を果たした時のものです。
小木さんと即興でコントネタを漫才風にアレンジして披露しましたが、制限時間4分のところを3分で終えてしまうというハプニングもあり、「凄い漫才、早く終わっちゃってるし」と、後に矢作さん自身が振り返る“らしさ全開”の舞台裏は、今では語り草となっています。
引用元:YouTube
矢作兼さんは2006年頃(当時35歳)の時に、TBSラジオの深夜番組『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』のパーソナリティを務め始めました。 この時、矢作兼さんは、“ラジオという場で自分たちの間合いとトークスタイルを磨く場を持つ”という新たな挑戦を始めたといいうことが確認できます。
その後、コンビ「おぎやはぎ」は“ネタ番組出演”だけでなく、バラエティ番組などで露出を重ねていき、『爆笑オンエアバトル』などでも印象的な回を残しています。
特に『爆笑オンエアバトル』では、満票評価の伝説も語られており、舞台での実力も認知され始めた時期の象徴的なエピソードと言えます。
上の画像は2006年頃(当時35歳)の時に、TBSラジオの深夜番組『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』のパーソナリティの時を初めて10回目の放送の時のものです。
この30代期には、テレビ番組出演の幅が拡がるだけでなく、ラジオ番組を長期に安定して続ける土台を築く時期でもありました。『メガネびいき』は2006年10月放送開始で現在も続くレギュラー番組です。
矢作兼さんは、2007年頃(当時約36歳)の時に、スーパーモデルと交際していたことをを明かしました。この時のことを後に矢作兼さんは、このようにお話しされていました。
「その時にハリウッドスターから彼女の事務所に連絡が来て『次の構想にどうだ?』って。『高級ホテルでご飯食べているから来ないか?』って誘われたって」と続けると、「相談されて、『行った方がいいかな?』って言うから、『行った方がいいよ、面白そうじゃん』って言って。
(行ったら)その人と6人くらい人がいて、段々いなくなっていくんですって。側近1人くらいしかいなくなったら『上にスイートルームがあるから』って、口説いてきて。俺に報告しなきゃいけないから、ぎりぎりまで行こうと部屋に行って。それでベッドで電気を消すぎりぎりまで行って、彼女は帰ってきた」と説明。
「だから、俺はハリウッドスターに勝った男なの。圧勝ですよ」と胸を張って言った。
引用元:スポーツ報知
自分の恋愛遍歴の一端を包み隠さず語ることで、“芸人の裏側”を垣間見せたトーク力と率直さが確認できます。

矢作兼さんって、モテるタイプなのかな?

それは、落ち着いた人柄や知性を大切にする姿勢から、自然と周囲に人が集まるタイプだから、“モテる”と言われることがあるのかもしれないね!
矢作兼さんは、過去にスーパーモデルと交際していたことがあるとテレビ番組で語っており、そのエピソードでは、ハリウッドスターから誘われた彼女が最終的に矢作さんのもとへ戻ってきたという驚きのエピソードまで披露されているわ。
また、結婚報道の際には、芸能関係者から「人当たりがよく、腰が低い」「男女問わず友人が多く、人気者」という声も上がっていました。
そうした話から、派手さよりも、柔らかく誠実な人間性が、自然と人を惹きつけていたことがうかがえます。
40代以上(2011年~)
引用元:YouTube
矢作兼さんは、2016年12月30日(当時45歳)の時に、TBSラジオ番組『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』の生放送中に、一般女性との結婚を発表しました。
番組内で、相方・小木博明さんに婚姻届の保証人を依頼し、その場でサインをもらうと、スタジオを一時抜けて妻と共に東京都内の区役所へ提出。矢作さんらしい自然体でスマートなスタイルの入籍が話題となりました。
この時、矢作兼さんは、「ついにさ〜、結婚するんだよ。オレ」と小木さんに報告し、「小木よりも一緒にいたいと思える女性と出会いました」「お互いを褒め続け、穏やかな家庭を築いていきたい」と直筆コメントでも喜びを表現しまた。
さらに結婚から1ヶ月後のイベントでは、「特に引っ越したわけでもないから、何も変わらなすぎて…。こんなんだったら、もっと早く結婚しておけばよかった」とも語っており、新しい暮らしにも自然体で馴染んでいる様子が確認ができます。
また、「こういう所でノロケる奴って、だいたい離婚するじゃないですか」と冗談交じりに語るなど、私生活を過度に語らずとも、新妻をそっと守ろうとするような姿勢が印象的です。
上の動画は2016年12月30日(当時45歳)の時に、TBSラジオ番組『JUNK おぎやはぎのメガネびいき』の生放送中に、一般女性との結婚を発表した時のものです。矢作さんはネタにして凄くはしゃいで嬉しそうです。
矢作兼さんは、2020年(当時48歳)の時に、不倫スキャンダルで活動自粛していた渡部建さんのラジオ番組『GOLD RUSH』の代打MCを務めました。この時矢作兼さんは、「渡部さんの謝罪文を僕が読むって、何の説得力があるんですか。代読はしません、謝る気もございません」と語っております。
このことから憶測で動く風潮に対して冗談と断固した拒否を混ぜて応じることで、自分の“役割の線引き”を明らかにする態度が確認できます。
矢作兼さんは、2021年(当時50歳)の時に、フジテレビ系『バイキングMORE』で、ミセス京都候補の市議・豊田恵美氏の政務活動費不正支出疑惑についてコメントしました。
この時矢作兼さんは、「嫌だよ、こんな夫婦げんかのことは何も言えないからさ…」「さすが『バイキング』だよ。犬も食わないものをやっぱり食うね。『バイキング』食べ放題だからね」とお話しされており、報道の是非を安易に判断せず、番組の“取り上げ方”や報道姿勢にも鋭い視線を向ける発言スタイルが確認できます。

矢作兼さんの眼鏡のこだわりってどんな感じなのかな?

それは、矢作さんの眼鏡は基本的に黒縁が定番ですが、形は少しずつ違っていて、以前のものをかけると「自分の中で変な感じがする」と語っているわ。
「誰も気づいていないと思うけど、自分はすごく気にしてる。女の人の前髪みたいなものですね(笑)」と、さりげなくも深いこだわりを明かしており、見た目以上に“自分らしさ”への感覚を大切にしている様子がうかがえます。
【画像】矢作兼と結婚した嫁はだれ?子供いるの?
矢作兼と結婚した嫁はだれ?
引用元:スポニチアネックス
引用元:日刊スポーツ
矢作兼さんが結婚した相手は、優香さん似とも言われる、12歳年下の一般女性です。芸能人ではないため、名前や写真などは一切公表されていませんが、2015年10月頃に交際報道があり、すでに同棲していたことが当時の報道から明らかになっています。
彼女の人物像について詳細は多く語られていないものの、矢作さんの周囲では「人当たりがよく、友人が多い」とされる矢作さんが「小木よりも一緒にいたい」と感じたことからも、信頼関係と相性の良さがうかがえます。
入籍当日、小木さんが保証人を務めたというエピソードも含め、長年の相方を交えた自然体の結婚スタイルが“矢作兼らしさ”を象徴していました。

矢作兼さんの結婚観ってどんな感じなのかな?

それは、「一緒にいるけれど、距離感を大切にしたい」という想いがあったから、隣同士の部屋に住むような“ちょうどいい関係”に憧れていたみたいよ!
実際に矢作さんは、「20代、30代の頃は“マンションの隣の部屋”とか“階が違う”とか、そういうスタイルの結婚生活に憧れていた」と語っていて、そのユニークな発想に共感してくれる人はなかなかいなかったそうです。
また、2010年10月にはモデル女性との交際が報じられ、2005年から約7年にわたって真剣交際していたものの、2012年に破局を経験。長年寄り添った関係でも、価値観の違いが影を落とす場面があったのかもしれないわね。
そんな矢作さんだけど、芸能関係者の間では「人当たりがよく、腰が低い」「男女問わず友人が多く人気者」との声も多く、誰とでも程よい距離感で付き合える“矢作さんらしさ”が、今の穏やかな夫婦関係にも活かされているのではないかしら。
矢作兼には子供はいるの?
引用元:スポーツ報知
引用元:スポニチアネックス
矢作兼さんは、2016年に一般女性と結婚し、2019年(当時48歳)の時には第一子の男の子「朔太郎」くんが誕生しました。さらに2023年2月14日には第二子となる男児が誕生し、ラジオ番組『おぎやはぎのメガネびいき』でその喜びを報告しました。
報告の場では「オレ、子どもが生まれたから」と淡々としたトーンで切り出しつつも、「バレンタインに生まれたからチョコ太郎」「文豪つながりで龍之介」など、名前の候補にユーモアを交えて紹介するあたりが矢作さんらしい一幕でした。

矢作兼さんの子育て観ってどんな感じなのかな?

矢作さんは、育児について多くを語るタイプではないものの、ラジオなどでこぼれるエピソードからは、子どもの自主性を尊重する、温かくて柔軟な姿勢が感じられるわ。
たとえば、YouTubeに夢中になる子に対しても「2歳の子がスワイプしてる」と驚きながら、叱るのではなく「ルービックキューブを教えてみた」という工夫を実践し、「そしたら夢中になって、スマホに触らなかった」と、遊びを通じて自然と興味を導いていく様子が印象的なの。
また「やりたいことがあるなら辞めていいよ」と背中を押すような考え方に深くうなずいてたわ。
“あえて多くを語らず、必要な時だけ手を差し伸べる”。
そんな自然体で穏やかな“見守る子育て”こそ、矢作さんらしい父親像かもしれないわね。
矢作兼さんがデビューした1995年はこんな年だった!
引用元:JIJI.COM、日刊ゲンダイDIGITAL、JIJI.COM
矢作兼さんがデビューした1995年は、「ミャンマーのアウンサン・スーチーが6年ぶりに自宅軟禁を解除」、「大和銀行の巨額損失事件」、「沖縄米兵少女暴行事件」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語(大賞)は、LAドジャースの「NOMO」で野茂 英雄 さんが受賞しました。
矢作兼プロフィール・SNS
引用元:TBSラジオ
プロフィール
- 名前:矢作 兼(やはぎ けん )
- 生年月日:1971年9月11日
- 年齢:54歳(2025年10月現在)
- 出身地:東京都
- 血液型:A型
- 趣味:車、時計、ビリヤード
- 特技:ゴルフ
- 所属事務所:プロダクション人力舎
SNS
- YouTube URL:https://www.youtube.com/watch?v=KdCIbpUO3IE
- オフィシャルサイト URL:https://www.p-jinriki.com/talent/ogiyahagi/


矢作さんの車愛って有名なんだよね?

それは、「車が好きでたまらない!」という純粋な情熱から、テレビ番組でもプライベートでも“クルマ中心のライフスタイル”になったみたいだね!
矢作兼さんは、BS日テレの人気番組『おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!』にて長年MCを務め、クルマ好きとして広く知られているの。
この番組から派生した大型イベント『愛車フェス』では、自身の愛車「ロールス・ロイス シルバーシャドウII」を展示したこともあり、「番組の中で乗りたい車をチョイスして、衝動買いしちゃった」と笑顔で明かしているわ。
とはいえ、「ロールス・ロイスは目立ちすぎて、街で“矢作だ、超ウケる”って言われるのが恥ずかしい」として、手放すことも検討しているみたいよ。
単なる見栄や収集ではなく、“自分のテンションと日常にフィットする車”を大事にしているところが、矢作さんらしいこだわりよね。