【画像】橋幸夫は若い頃イケメン!再婚相手との馴れ初めは?前妻との離婚理由は宗教?

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橋幸夫さんが亡くなった」というニュースを見て、どこかで聞いたことのある名前にふと足を止めた──
そんな人も多いのではないでしょうか。

昭和歌謡の黄金時代に活躍を続けてきた橋幸夫さん。『潮来笠』で鮮烈なデビューを果たし、『いつでも夢を』などの名曲で一世を風靡しました。その後も映画やテレビ、そして晩年には新たな表現にも挑み続けていました。

今回は、そんな橋幸夫さんの若い頃を振り返りながら、ヒットの裏にあった迷いや苦悩、そして“再起”の人生をたどってみたいと思います。


今を生きる私たちにも、どこか重なる想いが見つかるかもしれません。

目次

【画像】橋幸夫は若い頃イケメン!

10代(1953年~1963年)

引用元:読売新聞オンライン

橋幸夫さんは、戦中の東京・尾久に生まれ、武道に熱中した少年時代を経て、母の勧めで歌の道へ進まれました。

1943年5月3日、東京で染色業を営む橋家の末っ子として誕生しました。戦況悪化に伴い埼玉県加須市へ疎開し、終戦後は東京・池袋で復興の町並みとともに育ちました。

家族は大家族で、働き者の母と家長肌の父に支えられた環境で、池袋第三小学校では立教大学構内で遊び、空手や柔道にも熱中する活発な少年でした。

中学時代にはやんちゃな交友関係もあり、そんな橋さんを心配した母のすすめで、作曲家・遠藤実さんの歌謡教室に通い始めます。当初は歌に強い関心があったわけではありませんが、周囲に背中を押されながら次第にその道を意識しました。

高校進学後、遠藤先生から「そろそろプロになる練習をするぞ」と言われた際には、「僕自身、歌手になろうと思ってなった人間じゃないんです。お母さんが先生のところに僕を連れて行った。だから歌うしかなかったんですよ(笑)」と、橋さん自身が率直に語っています。

歌手になる覚悟は、周囲の想いを受け止めた先に生まれたものでした。ここから、橋幸夫さんの長い芸能人生が始まっていきます。

上の画像は1歳の時に母親に抱かれた時のものです。あどけなさがとてもカワイイですね。

引用元:YouTube

橋幸夫さんは、1960年(当時17歳)の時に、ビクターから『潮来笠』で歌手デビューを果たし、いきなり紅白歌合戦初出場という異例の大抜擢を受けました。また、この『潮来笠』で第2回日本レコード大賞新人賞を受賞しました。

橋さんも最初に受けた日本コロムビアのオーディションでは「若すぎる」という理由で落選します。しかし、師匠・遠藤実さんは諦めず、ライバル会社であるビクターに売り込み、そこから橋さんの運命は大きく動き出しました。

この時、橋幸夫さんは、「最初にオーディションを受けたのはコロムビアだったんですが、『若すぎる』という理由で落とされたんです」とお話しされております。当時の歌謡界では“ベテラン歌手”が主流だった中、わずか17歳でビクターからデビューを果たし、初出場の紅白歌合戦でも最年少という注目の的だったことが確認できます。

デビュー曲「潮来笠」は股旅演歌ながら、どこか都会的で端正な佇まいで、17歳とは思えぬ歌唱力に注目が集まり、まさに“昭和のスター転換期”を象徴する存在になりました。

初出場となった『NHK紅白歌合戦』でも、当時の出場者の中で最年少でした。

当時はテレビが急速に普及し始め、ラジオで聴いていた歌手の“顔”を初めて見る時代でした。その中で歌手にも「若さ」と「ビジュアル」が求められ始めていた中、橋さんはまさにその新時代のシンボルとなりました。

上の画像は1960年(当時17歳)の時に歌手デビューした時のものです。歌手デビュー、紅白歌合戦初出場、レコード大賞新人賞と当時ではジェットスターなデビューだったのではないでしょうか?

引用元:AmazonYouTube

橋幸夫さんは、1962年(当時19歳)の時に、青春歌謡『いつでも夢を』で吉永小百合さんとデュエットを組み、日本レコード大賞を受賞するなど国民的大ヒットを記録しました。

この時、橋幸夫さんは、「順調にヒットを重ねていたデビュー3年目の頃、ビクターのディレクターから“吉永小百合さんとデュエットをしないか”と話がありました」とお話しされております。


当時19歳の橋さんと17歳の吉永さんという、若手人気スター同士の豪華共演が大きな話題となっただけでなく、あまりの多忙さから別々に録音した音源を合成するという異例のレコーディング方法で制作されたことも、当時の状況を象徴する出来事であったことが確認できます。

実際に2人が一緒に歌ったのは、年末のレコード大賞の授賞式ステージが初めてだったというエピソードも、この曲にまつわる“奇跡のタイミング”を物語っています。

上の画像は1962年(当時19歳)の時に、青春歌謡『いつでも夢を』で吉永小百合さんとデュエットを組んだ時のものです。素敵なお二人ですよね。

シン

橋幸夫さんは昭和歌謡界の元祖「御三家」だったんだよね。

ラン

それは、「若い世代に夢を届けたい、時代を明るく照らす存在になりたい」という想いが、橋幸夫さん・舟木一夫さん・西郷輝彦さんという3人の若きスターの登場につながったみたいよ!

戦後の復興期、テレビや歌謡界が急成長するなか、彼らはそれぞれの個性と魅力で時代をけん引。雑誌やメディアが自然と“御三家”と呼ぶようになったのは、その3人がそろって心を奪う存在だったからと言われているわ。

橋さんが『潮来笠』で華々しくデビューしたとき、西郷さんはまだ鹿児島の小学生。だけど、3人そろってステージに立ったときの輝きは、まさに別格だったのよね。

20代(1963年~1973年)

引用元:AmazonYouTube

橋幸夫さんは、1966年(当時23歳)の時に、『霧氷』で第8回日本レコード大賞を受賞し、史上初となる”新人賞と大賞の2冠”を達成しました。さらに翌年の1967年(当時24歳)には『恋のメキシカン・ロック』を発表し、リズム歌謡という新境地へと挑戦しました。

この時、橋幸夫さんは、当時の本人コメントは確認されていませんが、10代で歌謡界に登場し、新人賞を獲得してからわずか6年後に2度目の大賞を受賞するという快挙は、日本歌謡界におけるトップシンガーとしての地位を確固たるものにしたことを示しています。

『霧氷』では、これまでの股旅・青春路線とは異なる大人のムード歌謡を情感豊かに歌い上げ、新たな一面を見せました。

その後、1967年の『恋のメキシカン・ロック』では、エレキやパーカッションを取り入れた明快なリズム歌謡に挑戦し、吉田正・佐伯孝夫さんとの“黄金トリオ”で新しい橋幸夫像を打ち出しました。

この時期は、歌のジャンルを超えて自身の表現の幅を大きく広げた、橋さんの進化の象徴とも言える時代でした。
なお、『恋のメキシカン・ロック』の歌唱はのちに清水アキラさんのモノマネでも親しまれ、昭和歌謡の名曲として長く愛されています。

上の1枚目の画像は1966年(当時23歳)の時に『霧氷』で新人賞と大賞の2冠を達成の時のものです。本当にトップスター街道まっしぐらですね。

2枚目の画像は、橋幸夫さんの『恋のメキシカン・ロック』をものまねタレントの清水あきらが真似した時のものです。筆者も当時このものまねを見て大爆笑しました。是非、観てみてください。

また、この曲は、同年『恋のメキシカン・ロック 恋と夢と冒険』として橋幸夫さん主演で映画化されました。

引用元:JIJI.COM

橋幸夫さんは、1969年(当時26歳)の時に、ハワイ行きの航空機に搭乗した際、客室乗務員として勤務していた凡子さんと出会い、帰国便での再会をきっかけに交際をスタートし、のちに結婚をしました。

この時、橋幸夫さんは、当時の本人の心境やコメントは記録されていませんが、凡子さんも橋さんのファンであったことから、互いに自然な形で惹かれ合い、愛を育んでいったことが確認できます。

結婚後は、凡子さんももエッセイストやタレントとして芸能活動を行い、二人の子どもにも恵まれ、“おしどり夫婦”として広く知られる存在となりました。

上の画像は1969年(当時26歳)の時に凡子さんと結婚した時のものです。幸せそうな笑顔ですね。奥様もとてもお綺麗で、芸能活動をするのも納得です。

引用元:読売新聞オンラインYouTube

橋幸夫さんは、1971年(当時28歳)の時に、新歌舞伎座での座長公演中、ビクターのディレクター・武田京子さんから手渡された漫画『子連れ狼』を読み、原作のイメージソングとして『子連れ狼』を歌うことになりました。

この時橋幸夫さんは、「面白かったですが、どういうことですか?」とお話しされており、劇画には馴染みがなかったものの、読み進めるうちに物語に引き込まれたこと、そして武田ディレクターからの唐突な『歌うに決まっているじゃないの』という展開に驚いたことが確認できます。

楽曲『子連れ狼』は、作詞を原作者の小池一夫さん、作曲は吉田正さんが手がけました。

完成時、吉田先生は「今度の曲は楽だぞ。ほとんど歌わなくて済むから」と冗談まじりに語ったとされ、冒頭は橋さんの語り、続いて児童合唱団のコーラスが響き、橋さん自身の歌唱は後半に登場するという、非常にユニークな構成となりました。

テレビ出演では、冒頭の長い合唱部分でカメラが困惑したため、橋さんは合唱団と共にステージに登場するようになったという裏話もあります。まさに時代を象徴する“劇画と歌謡の融合”を体現した一曲となりました。

上の画像は1971年(当時28歳)の時に『子連れ狼』を歌った時のものです。しとしとぴっちゃん しとぴっちゃん――という児童合唱団のコーラスが印象的です。

シン

橋幸夫さんって、デビューがすごく早かったけど、自分の意志で芸能界に入ったのかな?

ラン

実は、橋さん自身は最初から「歌手になりたい!」と思っていたわけではないのよね。

中学時代、武道に夢中でボクシングのプロテストまで考えたほどだったんだけど、お母様が「悪い仲間と離してあげたい」という思いから、作曲家・遠藤実さんの歌謡教室に通わせたのがきっかけだったみたい。

橋さんも「自分で決めた道ではなかったけれど、やるしかなかった」と後に語っているわ。

そんな状況からでも、一流の道を切り開いていった姿は、夢がなくても頑張る理由になる…と勇気をもらえますね。

30代(1973年~1983年)

引用元:snow records松竹井上・月丘映画財団

橋幸夫さんは、1970年(当時27歳)の時に、ビクターからオリジナルアルバム『橋幸夫12の愛を歌う』(SJX‑38)をリリースしました。これまでに発表してきた数々のヒット曲とはまた違った一面を感じさせる、愛の表現に満ちた一枚で、歌手としての表現力と円熟味を深めていく姿がうかがえます。

同年には、映画『東京・パリ 青春の条件』にも出演し、音楽活動だけでなく俳優としても存在感を見せました。

さらに1970年7月1日公開のミュージカル映画『花の不死鳥』では、有名歌手役として登場し、その演技と歌の両面で魅せるステージングは、まさに当時の橋さんの活躍を象徴するものでした。

この時橋幸夫さんは、「自分の中で“表現者”としての幅を広げていくことに、強い手応えを感じていた時期」と語った記録こそ見当たりませんが、その活動の広がりからも、歌手としての人気に甘んじることなく、新しいフィールドにも挑戦を重ねていたことが確認できます。

上の画像は1970年(当時27歳)の時に出演した時のものです。30代は歌だけではなく、映像や舞台の世界でも活躍されていたのですね。

シン

橋幸夫さんの人気曲って、どんな曲があるのかな?

ラン

橋幸夫さんの代表曲といえば、やはりデビュー曲で大ヒットした『潮来笠』をはじめ、『いつでも夢を』『雨の中の二人』『子連れ狼』など、時代を彩った名曲が数多くあるの。

ご本人が自選したベスト40には、以下のような楽曲が名を連ねており、時代ごとの多彩な魅力が感じられるわ。

🎤 潮来笠
🎤 いつでも夢を
🎤 霧氷
🎤 恋のメキシカン・ロック
🎤 江梨子舞妓はん、子連れ狼 など

さらに近年の『ベストヒット全曲集』には、『CHE CHE CHE』や『京都・神戸・銀座』『ゼッケンNo.1スタートだ』など、明るくポップな青春歌謡も含まれており、バラエティに富んだ音楽性が愛されています。

“和の心”を感じさせる股旅ソングから、ラテン風のポップスまで…橋さんの曲は、時代やジャンルを超えて楽しめる名曲ばかりなんです。

40代以上(1983年~)

引用元:YouTube

橋幸夫さんは、2021年(当時78歳)の時に、体力や声の衰えを感じたことをきっかけに、自らの意思で歌手活動からの引退を発表しました。この時橋さんは、「17歳でのデビューから、60年以上の歌手人生。終わりくらいは自分で決めたかった」とお話しされており、引退は自身の人生で初めての“自らの決断”だったことが確認できます。

しかし、引退後、ファンからの「勝手に辞めないで」「悲しくて個展にも行けない」という声に心を動かされ、さらに自身の歌を久しぶりに耳にしたことで「いい曲だな」「また歌いたい」と思うようになったそうです。

“自分だけのことではない”と気づいた橋さんは、わずか半年で引退を撤回しました。復帰会見はあえて“謝罪会見”と位置づけ、「歌の力を信じ、声が出なくなるまで歌い続けたい」と語りました。

また、大学で書画を学びながら、地域活動や新ユニット「yH2」の育成にも取り組み、ファンとの関係もより密接になりました。80歳を超えても、まだ伸びしろがあると語る姿は、橋幸夫さんの真骨頂とも言えると思います。

上の画像は2024年(当時81歳)の時に謝罪会見をした時のものです。ご自身と向き合って、今までを振り返っての決断だったのでしょうね。

引用元:スポニチアネックス

橋幸夫さんは、2017年(当時73歳)の時に、47年間連れ添った前妻との離婚を経て、18歳年下の女性と再婚をしました。

この時橋さんは、「デビュー以来、ずっと周りの大人が敷いたレールを歩いてきた。感謝はしているけれど、自分の意思で決められない人生が苦しかった。せめて最後くらい、自分で決めたい」とお話しされており、再婚は人生で初めて“自分自身で決断した選択”*であったことが確認できます。

また、離婚後すぐに再婚を決めた背景については、「不倫騒動のように誤解されないためにも、話をきちんとつけて、けじめをつけたかった」と説明されています。

前妻への配慮として「持っている財産はすべて捧げる」と贈与も行い、慰謝料の支払いにも自らの意思で応じたという姿勢を明かしています。

上の画像は2017年(当時73歳)の時に再婚した時のものです。前述の引退宣言撤回は、この奥様の助言もあってのことだったそうです。

引用元:YouTube

橋幸夫さんは、2022年(当時79歳)の時に、歌詞を忘れるなどの異変から「軽度のアルツハイマー型認知症」と診断され、その後も進行し、2023年には「中等度」と診断されるなど、病状が徐々に進行していきました。

この時橋幸夫さんは、公式な場では具体的な心境を語っていませんが、所属事務所の石田重廣社長によると、「以前の力ではないかもしれないが、本人は一生懸命前に向かっている」とのことで、病と向き合いながらも歌手活動を継続しようとする姿勢が確認できます。

2023年5月には声帯の筋力の衰えを理由に一度は引退を決意したものの、ファンの熱い声援を受け、2024年4月に“謝罪会見”という形で引退を撤回し、再び活動を開始しました。

しかし、2024年5月末に一過性脳虚血発作を起こして救急搬送され、その後も入退院を繰り返す状態が続きました。そして2025年9月4日午後11時48分、肺炎のため東京都内の病院で死去し、享年82歳でした。

上の画像は2025年に死去した時のものです。アルツハイマー病とも付き合って、歌手活動の再始動も決断した時だったので、周りやファンの方々は本当にショックだったかと思います。

シン

引退を撤回したきっかけは何だったのかな?

ラン

それは、ファンの熱烈な想いや叱咤の声が大きなきっかけだったみたい。
また、妻との車中で自分の楽曲を久々に聴いた際、「いい曲だな」と思わず口にしたことから、再び歌いたいという想いが芽生えたと橋さんは語っていたわ。

橋幸夫さんが所属する”夢グループ”には他に誰が所属してる?

引用元:narroORICON NEWS二代目橋幸夫yH2公式HP

橋幸夫さんの所属する夢グループには、俳優・歌手・タレントの黒澤年雄さん、歌手・アーティストの狩人さんや音楽ユニット二代目橋幸夫yH2さんなどが所属しています。

【画像】橋幸夫と再婚相手の馴れ初めは?前妻との離婚理由は宗教?

橋幸夫と再婚相手の馴れ初めは?

引用元:ORICON NEWS

橋幸夫さんは、50年近く連れ添った前妻と離婚した直後の2017年末、長年スタッフとして公私にわたり支えてきた50代の女性と再婚しました。

再婚相手の女性は、以前から橋さんの活動を裏方で支える存在であり、仕事を通じて信頼関係を築いてきた人物だと言われています。結婚後は東京近郊の温泉地にある高級マンションで新生活をスタートしました。

周辺では2人が仲良く歩く姿も目撃されており、橋さんにとって再婚は「一人暮らしの不安」や「ケジメ」という現実的な理由も含めた、人生の再出発だったようです。

シン

結婚式は挙げたのかな?

ラン

それは、正式な挙式ではありませんが、ハワイでのファンクラブツアー中に、親族やスタッフが集まった人前式風のセレモニーが行われたことが報道されているわ。

そのまま現地でハネムーンも楽しんだそうなの。

橋幸夫と前妻との離婚理由は宗教?

引用元:日刊スポーツ

橋幸夫さんは、約50年連れ添った前妻・凡子さんと2017年末に離婚しました。この離婚をめぐっては「宗教が原因では?」という噂も広がりました。

実際、凡子さんは1990年に亡くなった橋さんの母親の介護を、長年にわたってほぼ一人で担っていたと言われています。母親は晩年に認知症を患い、徘徊や失禁もあり、凡子さんはわずか2時間ほどしか眠れない日々が続いたそうです。

そんな心身ともに追い詰められた日々の中で、凡子さんはある女性霊媒師の影響を強く受けるようになります。自宅兼事務所には水晶玉や宗教画、壺などが並べられ、事務所の名前さえもその霊媒師が命名したと言われています。

当初は橋さん自身も運命学や易学への興味から一定の理解を示していたようですが、次第に凡子さんの宗教的傾倒に距離を感じるようになったとされます。関係者によれば、橋さんは晩年、「早くひとりになりたい」と周囲に漏らしていたそうです。

こうした価値観のズレや、長年のすれ違いを経て、橋さんは離婚を決断し「今まで他人の決めた人生だった。最後くらい自分の意思で決めたかった」と語っています。また、不倫と誤解されたくないとの思いから、離婚後すぐに再婚に踏み切ったとも明かしています。

シン

慰謝料や財産分与はどうなったのかな?

ラン

橋さんは離婚のけじめとして、購入時に約15億円ともいわれる都内の一等地にある自宅兼スタジオビルを、前妻に財産分与として譲渡したと報じられているの。

また、「慰謝料もすべて渡すつもりだった」との発言もあり、経済的な面でも誠意を見せていたわ。

橋幸夫さんがデビューした1960年はこんな年だった!

引用元:産経新聞NHKWikipedia

橋幸夫さんがデビューした1960年は、「日米相互協力及び安全保障条約調印」、「浩宮徳仁親王(今上天皇)誕生」、「ノースウエスト航空710便空中分解事故」などの出来事があり、話題となりました。

また、この年の流行語は、「黄金の60年」です。なお、「流行語大賞」は、1984年から始まった賞なので、1960年当時にはまだ存在していませんでした。

橋幸夫のプロフィール・SNS

引用元:産経新聞

プロフィール

  • 名前:橋 幸男(はし ゆきお)
  • 本名:橋 幸男
  • 生年月日:1943年5月3日
  • 年齢:82歳没(2025年9月現在)
  • 出身地:東京都
  • 血液型:A型
  • 趣味:掃除
  • 特技:スポーツ (ゴルフ、野球、テニス、柔道、空手、ボクシング) 
  • 所属事務所:夢グループ

SNS

シン

橋幸夫さんの趣味は「掃除」って本当?どんな掃除をしているのかな?

ラン

うん、本当よ。橋幸夫さんは“掃除好き”として知られており、自宅にはなんと掃除機が4台もあるほどなの。

特にこだわりがあるのは、お風呂場の目地の掃除で、細かい場所を丁寧にきれいにするのが好きだそうよ。

しかも、その掃除中にふとアイデアが降りてくることもあるとのことで、そのインスピレーションを趣味の書画制作にも活かしていると語っているわ。

ただの掃除ではなく、心を整え、創作のきっかけにもなる大切な時間になっているようね。

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