料理愛好家・タレント・シャンソン歌手として、ジャンルの垣根を越えてで活躍を続けている平野レミさん。
若き日は音楽に情熱を注ぎ、結婚後は家庭と仕事を行き来しながら、自分らしい道を切り開いてきました。
テレビで見せる自由奔放な料理スタイルは、時に笑いを誘い、時に「やってみよう」と背中を押してくれます。
今回は平野レミさんの若い頃を振り返り、「型にとらわれず、好奇心を忘れない」生き方の魅力と共に現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】平野レミは若い頃からユニーク!
10代(1957年~1967年)
平野レミさんは、1947年3月21日に東京都台東区で生まれ、千葉県松戸市でのびのびと育ちました。
幼少期はガキ大将タイプで、近所の子どもたちを引き連れて山の中を歩き回ったり、かくれんぼの最中にピカピカ光る棒を見つけて掴もうとしたら蛇だったこともあったそうです。藁の山をベッド代わりにして夕方まで昼寝をするなど、自然の中で自由に過ごしていました
父はフランス文学者の平野威馬雄さん、祖父はアメリカ人のヘンリイ・パイク・ブイさんという国際的で文化的な家庭環境に恵まれ、幼少期から自由で創造的な教育を受けました。
高校中退後、父の勧めで自由な教育方針を持つ文化学院へ入学しました。
そこで声楽家・佐藤美子さんに師事し、本格的にシャンソンの勉強を始めました。もともと歌うことが好きで、父を訪ねてくる外国人客が持参するシャンソンのレコードを聴き、庭で真似して歌っていたことが音楽の原点となりました。
当時の画像はみつかりませんでした。平野さんはハーフだったのですね。確かに目は日本人ぽくない気がします。
引用元:週刊女性PRIME
平野レミさんは、1960年代(当時10代後半)の時に、文化学院に入学し、歌謡教室からシャンソンへ転向しました。
当時銀座にあった日航ホテルの『ミュージックサロン』のオーディションを受けて合格し、念願のシャンソン歌手としてデビューしました。
この時平野レミさんは、父の紹介で師事した佐藤美子先生から「絶対、プロになっちゃいけませんよ」と忠告されながらも、「一度でいいから生のバンドで歌ってみたい」という思いからシャンソン歌手を目指したとお話しされております。
平野レミさんは、この時のことを「楽しいシャンソン生活のはじまりよ」とお話しされており、好奇心と行動力がプロ歌手への道を開いたことが確認できます。
上の画像は1960年代(当時10代後半)の時にシャンソン歌手としてデビューした時のものです。とてもかわいいですね。

平野レミさんが高校を中退した理由は何だったんだろう?

それは、「自分らしくのびのびと学びたい」という思いから、居心地の悪さを感じた高校を中退するという行動になったみたいよ!
中学まではのびのびとした生活を送っていましたが、高校は都立上野高校に進学したそうなのだけど、そこは親戚やいとこが通う名門校で、「無我夢中で勉強したら入っちゃった」と笑って振り返っているわ。
進学後は、教師から東大進学を強く勧められるなど、学校全体がピリピリした雰囲気で、そこで居心地の悪さを感じ、「学校をやめたい」と父に相談したところ、「いいよ。やめろ、やめろ」と即答され、理由すら聞かれなかったそうなの。
20代(1967年~1977年)
引用元:YouTube、YouTube
平野レミさんは、1970年(当時23歳)の時にコロムビアレコードからスカウトされ、『誘惑のバイヨン』でレコードデビューしました。
この時平野レミさんは当初『枯葉』や『愛の讃歌』のようなシャンソンを歌えると期待していましたが、「シャンソンはマイナーなので、まずは流行歌で」と提案され、作詞・笠井継程さん、作曲・桜田誠一さんによるムード歌謡を歌うことになったそうです。
その後も「シャンソンはまだ君には早い」と流行歌路線が続き、4曲目では『かもねぎ音頭』を歌わされそうになり、籠にねぎを背負って銀座でプロモーション活動を指示され、そこで「もうやめよう」と決意し、レコード歌手生活から身を引いたとお話しされています。
このことから音楽活動への夢と現実のギャップが、次のステップを選ぶきっかけとなったことが確認できます。
上の1枚目の動画は1970年(当時23歳)の時に『誘惑のバイヨン』でレコードデビューした時のものです。これはこれでレミさんっぽさが出て良いと思いますが、事務所的が求めていたシャンソンではなかったのでしょうね。
上の2枚目の動画は1973年(当時26歳)の時に『かもねぎ音頭』を歌った時のものです。事務所もデビュー曲を受け、レミさんの売り出し方を考えてこの曲をと思ったようですが、平野さんが描いていたシャンソン歌手像とは異なると感じ、歌手活動から身を引くことになったのだと思います。
引用元:読売新聞オンライン
平野レミさんは、1970年(当時23歳)の時に、芸能事務所に所属しましたが、ポルノ映画出演を勧められたことを拒否したため、社長の怒りを買い、その後のスケジュールをすべて白紙にされました。
そんな折、TBSラジオの平日帯番組『それ行け!歌謡曲』から出演依頼が舞い込みます。
この時のことを平野レミさんは局を訪れると、ディレクターから「混血児ですか」と尋ねられ、「4分の1は外国人の血が入っている」と答えると、さらに「コロムビアレコードから4月にデビューした新人ですか」と聞かれ、これにも「そうです」と返答したそうです。
ですが後にこれは、当時新人だった辺見マリさんの宣材写真に誤って平野レミさんの名前が書かれていたことによる“人違い”のオファーだったことが判明した。とお話しされています。
それでも出演は決まり、局アナウンサーの久米宏さんとともに「ミュージック・キャラバン」のコーナーを担当しました。ひょんなことからシャンソン歌手ではない道への挑戦をすることになったことが確認できます。
上の画像は1970年に「ミュージック・キャラバン」のコーナーを担当していた時のものです。平野さんはとても良い笑顔で楽しそうですね。
引用元:朝日新聞
平野レミさんは、1972年(当時25歳)の時に、イラストレーター・和田誠さんと出会ってわずか10日で結婚しました。出会いは、ラジオ番組『ミュージック・キャラバン』の放送をきっかけに、和田さんが知人を通して紹介を依頼したことから始まったそうです。
この時、平野レミさんは久米宏さんから「家に誘われても行ってはいけない」と釘を刺されていたものの、誘われると反発心からついて行き、本や浮世絵の話で盛り上がり、その後4日連続で和田宅を訪れ結婚に至ったとお話しされていました。
このことから好奇心旺盛だった平野さんにとって和田さんの世界観はとても魅力的だったことが確認できます。
上の画像は1972年(当時25歳)の時に和田誠さんと結婚した時のものです。幸せそうな笑顔ですね。
1975年(当時28歳)に長男の唱さんを、1979年(当時32歳)の時に次男の率さんを出産しました。この時平野レミさんは初めての出産は難産で、14時間もの間ベッドの上で陣痛に耐えていたと語っています。
そのような時に「お母様からですよ」と一枚の紙切れが届けられ、そこには大きな字で「レミちゃん、息をたくさん吸って口をつぐんでから一気に吐きなさい」と書かれていて、その言葉に励まされ、「お母さ~ん」と心の中で叫びながらいきむと、無事に赤ちゃんが誕生したと振り返っていました。
出産直後に梅干し入りのおにぎりを食べたそうで「あれに勝る美味しいものは今まで食べたことない! ひとりの人間を産み落とした達成感や充実感が混ざって最高の経験しちゃいました」とお話しされており、孤独な出産の最中に届いた母からのメッセージと、出産直後に食べた梅干し入りおにぎりの味が、今も心に残っていることが確認できます。
出産時に関しても画像は見つかりませんでした。

平野レミさんと和田誠さんの結婚について、ご両親はどう思っていたのかな?

平野レミさんは、「父から“レミから歌だけは取らないでおくれ”と和田さんに伝えてくれていた」とお話しされていて、このことから父は娘の歌への情熱を守ってほしいという思いを持っていたことが分かるわね。
もともと父は結婚時期を翌年6月と考えていたのですが、母は「その間に娘の気が変わるかも」と心配し、翌朝には「レミちゃん、いいから行ってらっしゃい」と送り出したそうなの。
こうして、出会ってからわずか10日で結婚生活が始まったみたいよ!

平野レミさんが長男を出産した時に思いもかけない訪問者が来たんだよね?

うん。妊娠中に切迫流産の兆候があり、日赤病院に一泊入院しましたが、無事回復して自宅に戻ったところ、俳優の渥美清さんが桐の箱に入った高級メロンを2つ手土産に訪ねてきてくれたそうなの。
渥美さんから「レミちゃん、これ食べて元気になって」と優しい言葉をかけられ感謝したものの、平野さんは「世の中でメロンが一番嫌いなの」と笑いながら暴露し、結局そのメロンは別の人に譲ったと振り返っていたわ。
30代(1977年~1987年)
引用元:読売新聞オンライン、NHKアーカイブス
平野レミさんは二人のお子さんを生んだ後は、子育てに奮闘しながらも、銀座の老舗シャンソン喫茶「銀巴里」に出演し、歌手としての活動を続けました。
授乳や家事の合間にステージへ向かう生活は決して楽ではありませんでしたが、家族の理解と支えがあり、自分らしさを保ちながら育児と仕事を両立していました。
この時のことを平野レミさんはこのようにお話しされています。
シャンソンはずっとやってたんだけど、料理の仕事がいっぱい来るようになっちゃって。バンドの演奏で歌って拍手もらうって、気持ちいいの。
引用元:kodomoe
でも、歌うときにはお化粧したりドレス着たり、譜面持って出かけたり、音合わせしたり、すごくやることがいっぱいあるのね。料理はうちでパパッと作って、写真撮って雑誌に載せるだけ。だから、人を喜ばせるのは一緒だけども、手っ取り早いのは料理よね。食べられるし、楽しいし。それで料理の仕事の比重が大きくなっていって、唱がちっちゃいときにはいつも家には撮影の人が来てました。
このことから家庭と歌手活動を両立させながら、徐々に料理の仕事の比重が大きくなっていった状況が確認できます。
上の2枚画像はお子さんの幼少期の時のものです。とても仲良さそうな幸せな家族だということが見受けられますね。
引用元:Facebook、NHK
平野レミさんは、1985年(当時38歳)の時にNHKの料理番組『きょうの料理』に出演したことをきっかけに、料理愛好家としてデビューしました。
これまで家庭や友人のために作っていた自由な発想の料理が、テレビを通じて多くの視聴者に知られるようになり、型にはまらないユニークなレシピや軽快なトークは大きな反響を呼び、番組スタッフや共演者の間でも話題になりました。
この時平野レミさんは、テレビ初登場となった放送で、湯むきしたトマトを素手で握りつぶして鍋に放り込むという大胆な調理を披露しました。
79年から現在まで『きょうの料理』のディレクターを務める河村明子さんは、当時の視聴者からは「あの下品な料理はなんだ!」というクレームが殺到しましたが、その一方で「すっごい楽しい」「誰?あれ?」という好意的な反応も多く寄せられ、大きな話題となったとお話しされていました。
型にとらわれない明るいキャラクターと独創的な料理スタイルが、テレビ業界に“料理エンターティナー”という新しい存在を誕生させたことが確認できます。
上の2つの画像は1985年(当時38歳)の時に料理愛好家としてデビューした時のものです。私もはじめて平野さんの料理法を見た時はかなり衝撃を受けました。2枚目の画像のリンクから当時の実際の料理動画を見ることができるので是非見て、当時の視聴者の気持ちを味わってみてください。

平野レミさんが料理愛好家になったきっかけは何かな?

きっかけは、和田家に集うグルメな友人たちに、冷蔵庫にあるものでサッと作った料理が美味しいと評判になったことだったとお話しされているわ。
小さい頃から家の自家菜園で採れたトマトを食べて感動し、初めて作った「トマト・うどん・チーズ・ピーマンの即興料理」が想像以上に美味しく、「1+1+1+1が4じゃなくて、100にも1000にもなる」と感じたことから、ますます料理に熱中するようになったみたい。
その後、家庭で作っていた料理が雑誌に紹介され、次々と出版社やテレビから依頼が舞い込み、平野さんは「料理学校なんて行ってないのに~」と笑いながらも、毎回真面目に料理を作り、「おいしい!」と言われる喜びからさらに意欲が増していったそうよ!
40代以上(1987年~)
引用元:YouTube
結婚して子どもが生まれた後もしばらく「銀巴里」で歌い続け、1988年(当時41歳)の時には念願のシャンソンCD『聞かせてよ~シャンソン・ド・レミ』を発売するなど、歌手としての夢も着実に叶えていきました。
家庭を支えながらも、自分の歌手としての夢を着実に形にした瞬間でした。
この時平野レミさんは、「息子たちが独立して、家に来ても『じゃあ、帰るね』と言ってしまうのが寂しかった。そんな時に和田さんが『レミにはまだやることがあるよね』と言ってくれたんです」とお話しされており、夫の後押しで再び歌の世界に本格的に取り組んだことが確認できます。
和田さんは、結婚の際に平野さんの父・威馬雄氏から「レミから歌を取り上げないように」と託された言葉を覚えており、その思いを形にするため、アルバム制作をプロデュースをしたそうで、平野さんは父にも和田さんにも感謝でいっぱいですと振り返っています。
2006年(当時59歳)の夏に録音したアルバム『私の旅』では、ジャズピアニスト佐山雅弘さんの編曲、阿川佐和子さん・清水ミチコさん・石川セリさんのコーラス参加など豪華な顔ぶれが集まりました。
映画『ひまわり』の主題歌に和田さんが日本語詞をつけた楽曲や、シャンソンの名曲メドレーなど全15曲が収録されています。
上の画像は1988年(当時41歳)の時にシャンソンCD『聞かせてよ~シャンソン・ド・レミ』を発売の時のものです。デビューの時と大分歌い方が変わりましたよね。素敵だなと思いました。
引用元:スポニチアネックス
2019年(当時)平野レミさんの夫であり、イラストレーター・グラフィックデザイナー・映画監督として活躍した和田誠さんが、肺炎のため83歳で亡くなりました。二人三脚で歩んだ結婚生活は47年。家庭でも公私でもお互いを尊重し、支え合う関係を築いてきました。
この時平野レミさんは、このようにお話しされています。
1年ほど前から体調を崩し自宅で療養していました。7月より都内の病院に入院していましたが、肺炎を患い、最後は家族みんなに守られながら、安らかにお別れをしました。肺炎を患ってからはご飯を食べられなかったので、和田さんが好きなご飯を沢山作って、安らかな顔の横に置いてあげました。最後の料理を作っているときはすごく幸せで「私にとっての一番の幸せは、和田さんにご飯を作ることだったんだ」とあらためて気づきました。47年間、私の料理を美味しい美味しいって食べてくれて本当にありがとう。安らかにね。
引用元:スポニチアネックス
このことからお互い寄り添い深い感謝と愛情に包まれた夫婦関係だったことが確認できます。
上の画像は2019年に夫の和田誠さんが亡くなった時のものです。最後まで平野さんの美味しい料理を食べることができてとても幸せだったと思います。

夫の和田誠さんさもお料理をしてくれたことがあるんだよね。

料理はよくしてくれたそうで、ある日、平野さんが地方での講演から帰宅すると、夫が根菜類と豚肉の煮ものを用意してくれていたそう。
「大根、にんじん、れんこん、ごぼうをすべて皮ごとコトコト煮込み、中にはトロトロに煮えた豚のかたまり肉と梅干しが1つ入っていて、とてもシンプルな料理でしたが、家族みんなで食べたその味は今も忘れられません」と振り返っていたわ。
息子さん2人は一緒に暮らしていた頃は料理をしなかったのに、今ではそれぞれの家庭で腕を振るっているそうです。特に次男は毎朝3人の子どものお弁当を作っているみたいよ!
平野レミさん”Remix”には他に誰が所属してる?
引用元:EduA
平野レミさんの所属するRemiには、料理家、食育インストラクターの和田明日香さんが所属しています。
【画像】平野レミと旦那の馴れ初めは?息子が事故の噂はホント?
平野レミと旦那の馴れ初めは?
引用元:週刊j女性PRIME
引用元:Facebook
TBSラジオ『ミュージック・キャラバン』で、平野レミさんは毎回「男が出るか女が出るか」と叫ぶのがお約束でした。のちに平野さんはエッセイで、このように語っています。
《二年半毎日それを繰り返していたら、のどがおかしくなり美声がドラ声になっちゃった(相棒の久米宏はそれを「のどちんこ骨折」と言った)。だからシャンソンを前ほどきれいな声では唄えない。そのかわりラジオを聞いて私をお嫁に欲しいと言う人が出てきた。今その人と結婚している》
引用元:CREA
その“お嫁に欲しい”と言った人こそ、イラストレーター・和田誠さんでした。
実は和田さんは、ラジオで声を聴く前からテレビで平野さんを見ており、ピアノ伴奏で歌っていた彼女が急に「ストップ!」と中断し、歌い直した場面を“チャーミング”だと感じており、後日ラジオでの奔放なトークを耳にして惚れ込み、知人を通じて紹介を依頼したそうです。

初めてのデートはどんな様子だったのかな?

初めて会ったのはTBS近くのしゃぶしゃぶ店で、その後、和田さんの家に誘われた平野さんは、事前に「ついて行くな」と忠告されていたにもかかわらず、反発心から訪問したそうなの。
壁一面の本棚や月岡芳年の血しぶきの浮世絵に感心し、お化け話に引き込まれて4日連続で通うことになったみたい。
さらに、渡米中の和田さん宅を訪れた際には、渥美清さんや永六輔さんといった著名人が集まっており、その交友関係にも感銘を受け、ますます尊敬の念を深めたとお話しされているわ。
平野レミの息子の事故の噂の真相は?
インターネットや一部の週刊誌などで、「平野レミさんの息子が事故に遭った」という噂が広まったことがあります。時期や経緯は明確でないものの、SNSや掲示板を通じて断片的な情報が拡散し、事実と異なる憶測が飛び交いました。
この噂の発端として考えられるのは、料理研究家・小林カツ代さんの息子が過去に交通事故を起こしたという報道との混同ではないかと推測されています。名前や職業分野が近く、親子で活動している点などから、情報がすり替わってしまった可能性があります。
本人や関係者もこの噂を否定しており、信頼できる報道やインタビューでは、息子さんたちが元気に過ごしていることが報じられています。

平野レミさんの子どもってどんな人なんですか?

平野レミさんには2人の息子さんがいます。
平野レミさんには2人の息子さんがいます。長男はバンド「TRICERATOPS」のボーカル&ギターで、女優の上野樹里さんを妻に持つ和田唱さんよ。
音楽活動のほか、テレビや雑誌でレミさんと共演することもしばしばあり、仲の良い母子関係で知られているわ。
次男は一般の方で映像関係の仕事をしているといわれていますが、メディアへの露出は少なめなの。
ただし、その妻の和田明日香さんは、平野さんの影響で料理家、食育インストラクターの資格を取得し、テレビやイベントでレミさんと共演する姿も見られてるわ。
平野レミさんがデビューした1970年はこんな年だった!
引用元:ええやん!大阪商店街、朝日新聞、名古屋情報通
平野レミさんがデビューした1970年は、「日本万国博覧会(大阪万博)開催」、「よど号ハイジャック事件」、「ケンタッキーフライドチキンの日本1号店名古屋にオープン」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語は、漫画の「鼻血ブー」で谷岡ヤスジさんでした。(流行語大賞は1984年から始まったので当時はまだありませんでした。)
平野レミのプロフィール・SNS
引用元:読売新聞オンライン
プロフィール
- 名前:平野 レミ(ひらの れみ)
- 本名: 和田 レミ
- 生年月日:1947年3月21日
- 年齢:78歳(2025年8月現在)
- 出身地:東京都
- 血液型:O型
- 趣味:外国旅行
- 特技:フランス語
- 所属事務所:Remix
SNS
- X(旧Twitter) URL:https://x.com/remi_hirano
あーちゃんと一緒に鎌倉に行ってきたわよ~大仏さまにはお会いできず笑。若者に混ざって散策と食べ歩き!明日の『DayDay』朝9時~お楽しみね。 https://t.co/UHtTjk1aDJ
— 平野レミ (@Remi_Hirano) July 8, 2025
- Instagram URL:https://www.instagram.com/reel/B_YoXLAnRXR/
- オフィシャルサイト URL:https://remy.jp/


平野レミさんの趣味の外国旅行ってどんな感じなのかな?

それは、料理への探究心とリフレッシュしたい気持ちから、さまざまな国へ出かけるみたいよ!
平野さんは「料理が一番だけど、外国旅行も大好き!」と語っていて、旅先で新しい文化や料理に触れることで、自分の心がひと皮もふた皮もむけるような感覚を味わっているとお話ししているわ。
日本に戻ると「さ~、また頑張るぞ~!」と新しい気持ちになり、生まれ変わったような感覚になるそうよ。
加えて美味しくて新しい料理に出会えるのも大きな醍醐味とお話しされていたわ。