俳優・タレント・元プロボクサーとして活躍を続けている赤井英和さん。“浪速のロッキー”の異名でボクシング界に衝撃を与え、引退後は俳優として映画『どついたるねん』などで圧倒的な存在感を放ってきました。
栄光と挫折、どん底からの再起——夢を追い続ける生き様は、いまなお多くの人に勇気を与え続けています。
今回は、赤井英和さんの若い頃を振り返り、再び輝きを放つ現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】赤井英和は若い頃イケメン!
10代(1969年~1979年)
引用元:Number Web
赤井英和さんは1959年、大阪市西成区・あいりん地区に生まれました。あいりん地区といえば、日雇い労働者が多く集まり、当時は労働者と機動隊が衝突する「西成暴動」も頻発していました。
酔っぱらったおじさんが電柱の脇で寝ていたり、流血事件を目の当たりにすることもあったが、それでも赤井さんは「人情味のある町やった」と振り返っています。
そんな街で育った赤井さんの実家は、祖父母の代から漬物の製造・販売を営んでおり、両親は日中は仕事に出ていたため、幼少期の面倒を主に見てくれたのはおばあちゃんだったそうです。一見荒々しい町の中にあって、祖母の手料理や漬物の香り、人情深い近所の人たちの支えが、赤井少年の“人間の芯”を育てていきました。
赤井さんは越境入学して小学校に通っていたため、中学進学時には再び地元の中学に戻ることになり、周囲に知っている人が誰もいないという孤立した状況になりました。
「友だちを作るにはどうしたらいいか?」と悩んだ末、、「ケンカするのが一番早いんちゃうか」と思い立ち、実際に入学式で同級生と殴り合いのケンカをして勝ったことをきっかけに、「あいつ誰や? 金塚小から来た赤井英和やで」と一目置かれるようになったそうです。
当時は柔道や空手教室に通っており、腕っぷしにも自信があった赤井さんは、「”お前のとこのケンカの強いやつを出せ”と、次々と近隣の学校に"俺は今中の赤井や"と殴り込みに行っていた」と、どこか懐かしそうに振り返っています。
上の画像は赤井英和さんの中学時代の時のものです。目立ちたくてやっているのでしょうか?思わず笑ってしまいました。
引用元:スポニチアネックス
赤井英和さんは、1975年(当時16歳)の時に、大阪の浪速高等学校に進学し、名門ボクシング部に入部しました。厳しい練習と上下関係に揉まれながらも、「浪高の赤井」と呼ばれる存在感を発揮し始めたことが知られています。
高校に進学すると行動範囲はさらに広がり、電車通学でいろんな学校の生徒と接するようになりました。
この時赤井英和さんは、「ケンカをすれば名前が広まる」と思っていたそうで“浪高の赤井”として存在感を放っていたそうです。実際には数回のケンカしかしていないそうですが、「浪高の赤井には気ぃつけなあかんぞ」という噂が先行して広まったと笑ってお話しされていました。
このことから赤井さんは、自ら大阪で頭角を現していったことが分かります。
赤井英和さんは、1978年(当時18歳)の時に、アジアジュニア選手権(パキスタン)とインターハイで優勝し、さらにモスクワ五輪ベルト争奪戦でKO勝ちを収めるなど、高校ボクシング界の頂点に立つ快進撃を見せました。
この時赤井英和さんは、「国体で吉田信次さんに勝ったときに、やっと“やる気スイッチ”が入った気がしますわ」とお話しされており、それまで不真面目だった生活から一転、情熱を持って拳に打ち込むようになった大きな転機であったことが確認できます。
顧問の戸田先生からの叱咤、そして津田博明トレーナーとの出会いによって、“左でたたけ”の教えをひたすら実践し、やがて“浪速のロッキー”と呼ばれる実力の土台がここで築かれていきました。
上の画像は、赤井英和さんが高校時代の時に遠足に行った時のものです。
奥様の佳子さんが番組で使用する写真として「こんな遠足はイヤだ」という題名でご自身のXに投稿し、ツッコミを交えつつ、SNSでも話題になったみたいです。
パンチパーマに無精ひげ、まるで映画のワンシーンのような風貌は、当時からすでに“ただ者ではない”存在感を放っていたことを物語っていますね。
引用元:Number Web
赤井英和さんは、1978年(当時18歳)の時に、大阪府代表として出場した国体で強豪・吉田信次選手に勝利したことがきっかけで、近畿大学ボクシング部から熱烈なスカウトを受け、同校へ進学しました。
この時赤井英和さんは、「いろんな大学から声はかかりましたけど、一番最初に声をかけてくれたのが吉川先生やったんです。」とお話しされており、”大阪から離れたくない”という気持ちも後押しとなって、進学を決めたことが確認できます。
また、大学時代については、「近畿大学で過ごした5年間は、私の宝物ですね」ともお話しされており、大学時代がとても充実していたことも確認できます。
赤井さんは、大学時代にモスクワオリンピック候補となりましたが、日本代表の出場辞退でオリンピック出場の夢が断たれ、その後、学生プロボクサーに転向し、新たな目標に向かっていきました。
上の画像は1978年(当時18歳)の時に近畿大学に入学した時のものです。さすがファイティングポーズ決まってますね。

赤井英和さんの家庭環境はどんな感じだったのかな?

それは、9人兄弟の末っ子として育ち、商売をしている家の手伝いが日常で、夕方6時には必ず店の片付けをしに行き、野球の順番が回ってきても「ほな帰るわ」とさっさと店に向かっていたみたいよ!

赤井英和さんがボクシング部に入部したきっかけは何だったんだろう?

それは、「どっちゃでもええわ、高校なんてやめたるわい」というやさぐれた気持ちを抱えながらも、「なんやお前、浪高も受けられへんのか」と兄に煽られたことがきっかけで、“どうせならやったるか”という思いが芽生えたから、浪速高校を受験し、ボクシング部に入部することになったみたいよ!
受験翌日、偶然出会った先輩に「明日の10時、食堂前に来い」と言われて行ってみたら、そこが道場で、そのまま流れるように入部したそうなの。
初めての試合はぶっつけ本番で、リングの上で味わった“本物の充実感”が、赤井さんの人生を大きく変えていったのかもしれないわね。
20代(1979年~1989年)
引用元:スポーツ報知
赤井英和さんは、1980年(当時21歳)の時に、愛寿ボクシングジム(現・グリーンツダジム)でプロデビューを果たし、豪快なKO劇とカリスマ性を武器に“浪速のロッキー”として一躍スター選手となる活躍をしました。
この時赤井英和さんは、このようにお話しされていました。
「判定で勝っても意味がないんや、と。でかいジムならチャンスもあるんやろうけど、うちみたいなちっこいジムで、世界タイトルマッチをするにはKOしかない。それで頭を振って、バンバン前に出ていくスタイル、いわば“魅せるボクシング”に変えたんです」
引用元:Number Web
このことから弱小ジムから世界を目指すために、自らスタイルをインファイター型へと変え、観客を沸かせる“魅せるボクシング”を実践していたことが確認できます。
上の画像は1980年(当時21歳)の時に、プロボクシングデビューした時のものです。画像からも強い気迫が伝わりますね。
引用元:Number Web
赤井英和さんは、1985年(当時26歳)の時に、世界ライト級タイトルマッチの前哨戦として挑んだ大和田正春選手との一戦で、脳挫傷を負い、命を守るためにボクサーとしてのキャリアに終止符を打つという決断をしました。
そしてこのことを機に、最初の結婚をし、新たに家庭を築くという人生の大きな節目を迎えました。
この時赤井英和さんは、「あの時はもう、早くやめたいと思ってた。練習もできなかったし、負けて当然の試合でした」とお話しされており、リングに立ちながらも心はすでに限界を迎えていたこと、そして精神的にも身体的にもギリギリの状態だったことが確認できます。
上の画像は1985年(当時26歳)の時に世界ライト級タイトルマッチの前哨戦で脳挫傷を負った時のものです。”もうだめや”と赤井さんの心の声が聞こえて来そうで、とても辛い場面ですね。

赤井英和さんは試合中の怪我に対して、当時どんな心境だったのかな?

それは、「絶対に復帰したると思ってましたし、もうできないなんて全然知らんかったし……」という強い気持ちと希望という理由から、「明日から何をして生きていけばええんやろう」と人生の空白に直面した時間になったみたいよ!
現役最後となった1985年の試合について赤井さんは、「リングに上がってからの記憶が全くない」と語っています。
それでも「ここで死んでもええわ」と覚悟を決めて戦ってきた赤井さんにとって、“リングに立つこと”がどれほど本気だったかが伝わってきます。
開頭手術後のことを冗談交じりに「脳みそだけは触ったらあかんて」と語る姿には、深いリアルと人間味がにじんでいますね。
30代(1989年~1999年)
引用元:クランクイン!
赤井英和さんは、1989年(当時30歳)の時に、映画『どついたるねん』で主演を務め、俳優としての新たな人生をスタートしました。
この時赤井さんは、笑福亭鶴瓶さんの「お前の人生、おもろいから本にせえや」という勧めを受けて、自伝『どついたるねん』を出版し、その後、阪本順治監督との出会いにより映画化が決定し、役そのものを“生きる”ように演じる日々が始まりました。
「現役時代より減量がキツかった」「ヤクルト1杯分の水で撮影に挑んだ」と語るほど、体も心も追い込まれた現場だったそうで、看板を素手で殴るシーンでは拳に傷が残り、「毎日、深夜まで撮って、帰ってセリフ覚えてまた朝から撮影。もう、自分のことで精一杯でした」と振り返っています。
また後に「今やったらもっと上手く表現できる。この仕事をもっとやってみたい」とお話しされており、無為に過ごしていた日々を抜け出し、“表現者”としての覚悟を持ち始めたことが確認できます。
上の画像は1989年(当時30歳)の時に、映画『どついたるねん』で主演をした時のものです。俳優デビュー作がボクシング作品なんて本当に運命的な再起ですね。
引用元:X今撮影している映画のご祈祷をして頂いた今宮戎さんは私達が結婚式を挙げた神社だ。赤井はめちゃくちゃ笑っているが、勝手におしかけて行って赤井の実家に住んだ赤井のご両親からは、家から出て行ってくれ、私の両親からは勘当、仲人さんは2回目、めでたくも楽しくもない、ギクシャクした結婚式だった pic.twitter.com/QfSIrbBXUu
— 赤井英和の嫁 佳子 (@yomeyoshiko224) December 20, 2023
赤井英和さんは、1995年(当時36歳)の時に、佳子さんと再婚し、家族を持つ人生を再スタートしました。
この時赤井さんは、「佳子ちゃんのお腹に子どもができて、“結婚しよか”と。」とお話しされており、不器用ながらも愛する人と向き合い、新たな家庭を築いていく決意を固めていたことが確認できます。
上の画像は1995年(当時36歳)の時に、佳子さんと再婚した時のものです。満面の笑みで本当に幸せそうですね。

赤井英和さんと佳子さんの結婚の馴れ初めって何なのかな?

それは、「初めて会ったときベロンベロンでグチャグチャ。でも一方的に一目惚れしてしまい唯一の家財道具だったピアノを持って、赤井さんの実家に勝手に押しかけた」そうなの。
佳子さんは「元ボクサーで俳優とは知らずに好きになった」と語り、赤井さんも俳優の仕事が忙しく「当時は週に一、二度しか帰れなかった」と回想していたわ。
毎朝届くお義父さんからの「出て行ってくれ」のメモも笑顔でスルーしていたそうよ。
そんなある日、「佳子ちゃんのお腹に子どもができて、『結婚しよか』って言いました」と赤井さんがプロポースしたみたいよ!
40代以上(1999年~)
引用元:デイリー
赤井英和さんは、2012年(当時53歳)の時に、母校・近畿大学の廃部状態だったボクシング部を再建するため、嘱託職員として総監督に就任し、ボクシング道場に戻り、学生たちと汗を流す日々が始まりました。
この時赤井さんは、「エディ・タウンゼントさんに教わったとおり、選手ファーストが基本。バスタオルを2枚用意して、ミット打ちの後は学生の汗を拭いてあげる」とお話しされています。不祥事による2009年の廃部後、署名活動などを通してOBたちと再建に尽力し、学生と共にゼロから歩み直した姿勢が確認できます。
部員4人・3部リーグからの再スタートを経て、元世界王者・名城信男氏を迎えて1部復帰。ついには2023年6月、21年ぶりの関西リーグ優勝を果たすなど、その努力は確かな実りを見せています。
上の画像は2012年(当時53歳)の時に、廃部状態だった母校・近畿大学の再建のために総監督に就任の時のものです。近大はの不祥事によるボクシング部廃部に対しては赤井さんも相当なショックを受けていたので、この再建にとても熱い気持ちがあったでしょうね。
引用元:ORICON NEWS
赤井英和さんは、2022年(当時63歳)に妻・佳子さんとともに、理想の夫婦に贈られる『いい夫婦 パートナー・オブ・ザ・イヤー』芸能部門を受賞しました。結婚30周年という節目を迎えた年でもあり、ご家族全員が会場に集まりました。
この時赤井さんは、「皆さんに感謝です。これからも“いい夫婦”であり続けたい。来月、孫も生まれる予定で非常に楽しみです」と笑顔でスピーチされており、夫婦としての信頼と感謝の想いが確認できます。
会場には、長女・つかささん、長男・英五郎さんもサプライズで登場し、「怒られたらすぐ謝る」「喧嘩しない夫婦です(笑)」と語るなど、家族の仲睦まじい様子が伝わるひとときとなりました。佳子さんも「子ども3人がいたから、ここまで来られた」と語っており、公私にわたり支え合ってきた30年の歩みが感じられる瞬間でした。
上の画像は2022年(当時63歳)の時に妻・佳子さんとともにいい夫婦 パートナー・オブ・ザ・イヤーを受賞した時のものです。本当にお似合いで仲睦まじいい素敵なカップルで、この受賞にとてもふさわしいですね。

赤井英和さんのお子さんはどんな人なんだろう?

赤井さんと佳子さんには、結婚30年の間に3人の子どもさんがいるの。
長女・つかささんは2017年にはミス・ユニバース・ジャパン東京大会で審査員特別賞も受賞したのよ。
長男・英五郎さんはプロボクサーでありながら、映画『AKAI』の監督としても活躍しているわ。
一方、次男・英佳さんは俳優としてハリウッドや舞台で活動中みたいよ!
赤井英和さんが所属する”プランニングメイ”には他に誰が所属してる?
引用元:テレ東、ORICON NEWS、BLUE LABEL
赤井英和さんの所属するプランニングメイには、俳優の尾見としのりさん、俳優の青山良彦さんや女優の西丸優子さんなどが所属しています。
【画像】赤井英和がRIZAPで激変した理由は?娘は現在なにしてる?
赤井英和がRIZAPで激変した理由は?
引用元:YouTube
引用元:クランクイン!
赤井英和さんがRIZAPで見事なシェイプアップを遂げた理由は、なんと「奥さんへの想い」からでした。
「結婚した時にはすでにボクシングを引退して太っていた。だから、現役時代の体を知らない嫁さんに、その頃の姿を見せたかった」と語るように、ただの減量ではなく、“見せてあげたい”という愛情が強い動機になっていました。
結果は2ヶ月で7kg減(77.1kg→70.1kg)。腹筋の割れたボディがCMでも話題になりました。
赤井さんは「今では夜中にビール飲んで妻を起こして怒られることもなくなって、夫婦仲も良くなりました」と笑顔で話し、照れながら「よろこんでくれてます!」と奥様の反応も明かしています。
さらに「夢や理想をまぶたの裏に描いて、それに向かって動けば叶う」と力強いメッセージも送っていました。
この挑戦は、元ボクサーという肩書きだけでなく、“家族のために変わろうとする強さ”を持った赤井さんだからこそ、成し遂げられたのかもしれません。

RIZAPでの体づくり、赤井英和さんが大切にしていたことは何かな?

母校・近畿大学ボクシング部の総監督も務めていた赤井さんは、「勝ちたい気持ち、いい体になりたいという気持ちが大事」と力強く語っていたわ。
“もう一度自分を燃やす”という強い気持ちが、年齢を超えて新しい挑戦へと導いたみたいよ!
赤井英和の娘は現在なにしてる?
引用元:デイリー
引用元:読売新聞オンライン
赤井英和さんには前妻との間に2女、再婚した妻佳子との間に2男1女がいます。
佳子さんとの間に生まれたつかささんは、医療系大学に通いながら、ミス・ユニバースの東京大会に出場し、2017年にはファイナリスト26人の中から審査員特別賞に選ばれました。
学業と美のトレーニングを両立させる努力家で、「どちらも大切」と語る姿勢からも、芯の強さとまっすぐな人柄がうかがえます。現在は会社員として働いているとされており、表舞台とは少し距離を置きながらも、自分の道をしっかり歩んでいるようです。
前妻との間に生まれた次女の沙希はさんは、モデル・タレントとして活動後、2013年にプロレスラーとしてデビューしました。男子レスラーが大半を占める団体「DDTプロレスリング」で、唯一の女性選手として10年間戦い抜き、2023年11月に引退しました。
現在は舞台女優として活躍するほか、エステサロンを経営し、DDTの裏方スタッフとしても若手のサポートに携わっています。
また、赤井さんと佳子さんは過去に双子のお子さんを亡くされるという深い悲しみを経験されています。お二人のお嬢さんは早産で誕生し、体重も1400グラムと1100グラムと小さな体で懸命に生まれてきました。
妹さんは生後3日で、姉妹のお姉さんは約7カ月間、危篤状態のまま病院で闘病を続けましたが、静かに息を引き取られたそうです。
赤井さんは当時を「帰宅するたびに、佳子ちゃんが黙って涙を流していた。2人で何も言わずに泣いていました」と振り返り、その辛さと夫婦の支え合いを語っておられます。深い哀しみの中でも寄り添い続けたご夫婦の絆が、今の“いい夫婦”としての姿に繋がっていることが伺えます。

赤井英和さんの息子さんはどんな人なのかな?

英五郎さんは、“浪速のロッキー”の意志を継ぐ佳子さんの長男として誕生したわ。
小6でハワイ留学し、中学ではラグビー、高校でアメフト、大学ではボクシングに挑戦し、2020年にプロデビューし、2023年7月には2ラウンドTKOで初勝利を挙げたの。
現在はボクサーとしてのトレーニングと並行し、父のドキュメンタリー映画『AKAI』の監督を務めているわ。
一方、次男さんは現在アメリカ・カリフォルニアの大学院で演技を学んでおり、「俳優としてハリウッドデビューするかも」と赤井さんも期待を寄せているわ。
どちらも父譲りの情熱と行動力を持つ、頼もしい若者たちよ。
赤井英和さんがデビューした1980年はこんな年だった!
引用元:ARAB NEWS JAPAN、トウシル、JIJI.COM
赤井英和さんがデビューした1980年は、「イラン・イラク戦争勃発」、「アメリカ合衆国大統領選挙でロナルド・レーガンが当選」、「ジョンレノン銃殺事件」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語(大賞)は、8時だよ全員集合!の「カラスの勝手でしょ」で志村けんさんが受賞しました。
赤井英和のプロフィール・SNS
引用元:地域NEWS号外NET
プロフィール
- 名前:赤井 英和(あかい ひでかず)
- 生年月日:1959年8月17日
- 年齢:65歳(2025年7月現在)
- 出身地:大阪府
- 血液型:A型
- 趣味:将棋
- 特技:皿洗い タオルたたみ
- 所属事務所:プランニングメイ
SNS

赤井英和さんの特技のタオルたたみって今もしているのかな?

うん。今も続けているみたいよ。
妻・佳子さんのXの投稿によると、赤井さんは現在でも出かける前に“自分の担当のタオル”をきちんと畳む習慣を続けているそうなの。
芸能人プロフィールの「特技」に「タオルたたみ」と記載したことに対し、赤井さんは「そんな特技見ても、タオルたためてくる仕事なんか、ないやろー」とぼやきながらも、手を止めることなく黙々と畳んでいた
みたいよ!
この何気ない日常に、赤井さんの誠実な人柄と、夫婦の温かいやりとりが垣間見えるわね。