中学生でデビューし、女優、歌手として活躍を続けている浅丘ルリ子さん。
1960年代には日活の看板女優として大活躍をしました。
今回は浅丘ルリ子さんの若い頃を振り返り、現在の活躍に至るまでの変遷をお届けいたします!
【画像】浅丘ルリ子は若い頃かわいい!
10代(1950年~1960年)
引用元:ミドルエッジ
浅丘ルリ子さんは画家、ファッションデザイナーでもある故・中原淳一さんが挿絵を描かれていた日活初のカラー映画「緑はるかに」(1955年)のヒロインのルリコ役の募集を知り、オーディションに応募をしました。
会場では周りが綺麗なお召し物を着ている中、浅丘さんは友人からセーラー服を借り、3つ編みにリボンをつけて行ったそうですが、それが返って良かったみたいで、応募総数約3000人の中から選ばれて、14歳で銀幕デビューを果たしました。
上の画像はデビュー当時の14歳の頃の浅丘ルリ子さんです。美形で整った顔立ちですね!
また、浅丘ルリ子という芸名の由来は、緑はるかにのヒロインのルリコと、浅丘さんの本名から「浅」の1文字をとり、緑はるかにのイメージ由来で「丘」という字をつけて、「浅丘ルリ子」となりました。
その後、「小林旭さんの渡り鳥」(1959年)、「銀座旋風児」(1959年9月)、「海から来た流れ者」(1960年2月)など3大アクション・シリーズにヒロインとして出演をし、日本の映画史を代表とする女優として多くの作品に出演をしました。
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浅丘ルリ子さんは美人で濃い顔立ちだけどハーフなのかな?
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確かにお顔が小さくて目が大きいし、整っているから日本人離れしている印象はあるけど、ご両親も日本人だから、浅丘ルリ子さんも生粋の日本人だね!
20代(1960年~1970年)
引用元:JOYSOUND.com
1963年9月(当時23歳)には石原裕次郎さんと初デュエット曲をリリースしました。売上は143万枚と大ヒットを記録しました。1966年(当時26歳)には日活との専属契約を打ち切り、石原裕次郎さん率いる石原プロモーションに入社をしました。
石原裕次郎さんのムード・アクション・シリーズ「赤いハンカチ」(1964年)、「夕陽の丘」(1964年)、「夜霧よ今夜も有難う」(1967年)などの作品にも出演をしました。
引用元:NHK
1968年1月〜12月(当時28歳)には、NHKの連続ドラマ「竜馬がゆく」に出演をしました。浅丘さんは本作がNHKの連続ドラマに初出演となりました。
浅丘さんは当時から“台本第一”という姿勢を貫いていたので、原作を読むことはなかったそうですが、この時はなぜか原作を読んでしまい、とても面白かったことを覚えているそうです。
引用元:Manhattan Records
引用元:シネマnavi
1969年(当時29歳)には愛の化石をリリースされました。爆発的なヒットでレコード売り上げ100万枚を突破した愛の化石ですが、翌年の1970年3月には、浅丘さんと俳優の故・田宮二郎さん主演で同名の映画も公開されました。
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浅丘ルリ子さんは1960年代は多くの作品に出演していて公私共に大変だったんじゃないかな?
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確かに自分の時間は全くなくて、常に4つくらい台本を抱えていたそうよ!当時は日活自体がすごく盛り上がっていて、次々に新しい作品を作らないといけなかったけど、その時代にやらせてもらったのがとても嬉しかったみたい!
30代(1970年~1980年)
引用元:産経新聞
1972年(当時32歳)に浅丘ルリ子さんは、石原プロモーションが劇場用映画製作から撤退したのを機に退社しフリーとなりました。
1975年(当時35歳)には「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」に寅さんファンから大人気のマドンナ、リリー役として出演しました。浅丘さん曰く「リリーの性格は自分に似ている」そうで、監督の山田洋次さんが性格も衣装もメイクも、全て浅丘さんに合わせて製作されたそうです。
浅丘ルリ子さんの役どころは当初、リリーではなく、北海道の牧場のおかみさんの役だったそうです。
浅丘さんが山田監督に「この細い手と華奢な体で、毎朝重いバケツを持つような役が、私に合いますでしょうか?」と言ったら、山田さんが「1週間ください」と言って、その後リリーの役になったそうです。
浅丘さんは、寅さんシリーズの1本目の「忘れな草」の後に今回の「相合い傘」で2度目の出演を果たしましたが、浅丘さんはこの2作目が1番好きだそうです。
引用元:NHK
1977年1月2日~12月25日(当時37歳)まで放送されたNHK大河ドラマ第15作目の「花神」に出演をしました。
撮影時にプロデューサーや監督から「浅丘さんって不思議だよね。原作を読まず、何も勉強しないで台本を読んだだけで、ぽんとその役を掴むんだから」と言われていたそうです。
浅丘さんはまずは、ああやろう、こうやろうと頭で考えて役に臨むわけではなく、「セリフを覚えながら台本を読んでいると、こういう風にすればいいかな、こんな言い方がいいかな」と自然に出来てくるものを演じるのだそうです。
引用元:X浅丘ルリ子、舞台「ノートルダム・ド・パリ」(演出:蜷川幸雄)より(1979年) pic.twitter.com/d85EL2VpXb
— ken (@ken29716939) April 25, 2024
1979年には蜷川幸雄さんがの演出「ノートルダム・ド・パリ」で舞台に初主演をしました。
初舞台のオファーが来たのは38歳の時で長年、映像の世界で生きてきた浅丘さんは、舞台に立つなんてと考えると恐ろしくて、1度は出演を断ったそうです。
それでも何度も「やりましょう」と浅丘さんを説得したのは、演出を務めた蜷川さんだったそうです。
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浅丘ルリ子さんは、出演作はどうやって選んでいるの?
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企画や台本を読んで、これはやる、やらないって勘で決めるそうよ!
「好きか嫌いか、やってみたいかどうか。やったことないからやってみようとか、面白そうとかで決める」そうよ!
40代以上(1980年~)
引用元:スポニチ
1980年代以降は活動の中心を舞台に移し、小説家・泉鏡花さんの原作となった作品などに出演していました。
2019年12月27日(当時79歳)には「男はつらいよ お帰り寅さん」の映画が公開され、浅丘さんは再びリリー役として出演をしました。
今回の寅さんはシリーズ50周年記念作品であり、通算第50作目で、浅丘さんは出演映画159本目となりました。
今回の寅さんでは、渥美清さんもいらっしゃらなくて、すごく寂しかったそうですが「やっぱりこのリリー役は神様がどこかで引っ張って下さったんだ」と思い、リリーは浅丘さんの宝物だそうです。
引用元:NHKオンデマンド
2021年11月28日(当時81歳)放送のNHK BSプレミアムドラマ「生きて、ふたたび 保護司・深谷善輔」に出演した際には、息子殺しの母親役を演じました。
浅丘さんは、これまで家族がいる役を演じることは多くありませんでしたし、まして”自分の息子を殺した母親役”というのは初めてで、そこで最初に思ったのが「とにかく人に嫌われる女性を演じよう」ということだったそうです。登場するところから“嫌な女”になろうと思ったそうなのです。
外見だけでなく、態度も話し方も嫌な女でいこうと決めていた浅丘ルリ子さんは、主演の舘ひろしさんにも楯突いたり、嫌な言い方ばかりしていて、引っぱたきたくなるようなひどいことばかりどんどんエスカレートしていったのだとか。
そんな嫌な女を演じながら、浅丘さんは少し気持ち良くもあり楽しみながら演じることができたそうです。
監督さんはとても熱心で、浅丘さんの作品も沢山見て下さっていたそうです。何度も家に来てくれて、「ここをこう直していいですか」と打ち合わせを重ねたそうです。
舘ひろしさんとも初めての共演でしたが、浅丘さんもとても好きな作品となったようです。
引用元:PR TIMES
2024年3月(当時83歳)には同年5月開催のイベント「~浅丘ルリ子 トーク&シネマ~『1960年代 日活映画☆浅丘ルリ子』」を前に、合同取材会を開催しました。
「忙しいなんてもんじゃない。自分の時間が全然なくて、朝起きたらすぐ撮影所で、台本も4つくらい抱えて、どれがどれだかさっぱりわからない」
1960年代、当時の多忙さについてそう語る浅丘さんですが、嬉しいこともあったそうで、「ただ、新しいものを見たいというお客様もいたので、あの時代にずっとやらせていただいていたというのが、すごく嬉しかったです」と振り返りました。
なかでも印象的なエピソードは、忙しいのに撮影が終わってから、調布から銀座に出かけて深夜まで飲み、朝いつも遅れてくる小林旭さんと石原裕次郎さんに、我慢の限界を迎え「いい加減にしてよ! ちゃんと来て!」と怒りをあらわにしたこともあったというものです。すごく楽しい時代を過ごしていたようですね。
浅丘さんがここまで女優を続けてきた原動力も「面白いから」だったといい、自分にとって女優は天職だと思っているそうです。これからも、印象的なキャラクターを生み出してほしいですね。
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長年トップ女優として活躍してきた浅丘さんの今だから話せる失敗はあるのかな?
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失敗はあまりしたことがないみたい!
失敗する前に自分で分かるそうで、1960年代は、嫌でもやらなきゃいけない仕事はあったけれど、今なら例えば「ギャラを倍にする」とか言われても、私がやることではないと思ったら、テコでも動かないことにしているみたい!
【画像】浅丘ルリ子と石坂浩二の馴れ初めや離婚理由は?小林旭との破局は父のせい?
浅丘ルリ子と石坂浩二の馴れ初めや離婚理由は?
引用元:スポニチ
浅丘ルリ子さんは1971年4月(当時30歳)に俳優の石坂浩二さんと結婚をしました。日本テレビのドラマ「2丁目3番地」での共演をきっかけにふたりは仲を深めました。翌月には東京・赤坂にある霊南坂教会で結婚式を挙げました。
石坂さんには「結婚してからも仕事を選んで女優を続けてほしい」と言われたことがとても嬉しかったそうです。
石坂さんは趣味の絵を描くことが1つで、二科展で何度も入選しているほどの腕前でした。結婚から5~6年したころに「アトリエをもちたい」と言い始めたため、別に部屋を借り、石坂さんはそこで寝泊まりするようになったそうです。
そのとき浅丘さんはふと「ああ、そういうことなのね」と思ったそうで、案の定浅丘さんの予感は的中し、石坂さんには彼女がいたそうです。最初のうちは腹が立った浅丘さんでしたが、人の感情は止められないから熱が冷めるまで放っておこうと思うようになったそうです。
そういう状態が続いていたある日、石坂さんから「いつも家にいてくれる人と一緒になって、子供もほしい。母も引き取って一緒に暮らしたい」と言われ、最初は驚いて動揺した浅丘さんでしたが、最終的には合意する形となったそうです。その後お2人は30年間の結婚生活にピリオドを打ち、2000年(当時60歳)に離婚をしました。
しかし浅丘さんにとって、石坂さんとの生活で失ったものは何ひとつなかったといいます。
絵や星座のこと、料理、それに女優と家庭の両立がいかに大変か結婚生活を通して、沢山のことを学んだそうです。このように前向きに考えられる浅丘さんにお人柄の良さが出ていますね!
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お2人は、離婚後に共演したことはあるの?
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2017年4月に放送されたテレビ朝日系ドラマ「やすらぎの郷」で共演をしたそうよ!
浅丘さんは今までずっと“兵ちゃん”(石坂さんの本名)と呼んできたので、1回だけうっかり本番で呼んでしまい、慌てて直したそうよ!
浅丘ルリ子と小林旭の破局は父のせい?
引用元:47NEWS
引用元:日刊ゲンダイDIGITAL
浅丘ルリ子さんは1960年頃に一時、歌手で俳優の小林旭さんと事実婚の関係にありました。映画の共演で、1年中行動を共にしていたお2人は、私生活では恋人関係にありました。結婚話が出ていていたそうです。
しかし、小林旭さんが浅丘さんの父親に挨拶に行った際に「申し訳ありませんけど、信子はまだ嫁にやるわけにはいきません。まだ仕事をしたばかりですから、これで辞めるということになると、こんなもったいないことはない。ご結婚はお断りします」とはっきりと断られたそうです。
結婚を反対された理由について、浅丘さんは「父はもう仕事ができませんでしたし、私しか働く人がいなかったので」とお話しされており、浅丘さんが家族を養い家計を担っていたことが最大の理由だったようです。
そしてお2人は1961年8月(当時21歳)に別離をしました。
浅丘さんは当時を振り返ったインタビューで「結婚はしなくて良かったです。ずっとお仕事続けてきたから今がある」と決断に悔いはなかった事を語りました。
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浅丘ルリ子さんに子供はいるの?
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子供はいないみたい!
小さいお子さんを見ると飛んでいって、抱き締めちゃうほど子供は好きみたいだけど、結婚はしたとしても自分が母親になることは考えもしなくて、それくらい女優という仕事に没頭していたみたい!
浅丘ルリ子さんがデビューした1955年はこんな年だった!
引用元:ツギノジダイ - 朝日新聞デジタル、Wired Japan、NHK
浅丘ルリ子さんがデビューした1955年は、「後楽園ゆうえんち開園」、「米ディズニーランドオープン」、「第2次鳩山内閣発足」などの出来事があり、話題となりました。
また、この年の流行語は、「三種の神器」、「押し屋」、「ノイローゼ」などがありました。
浅丘ルリ子のプロフィール・SNS
引用元:ナタリー
プロフィール
- 名前:浅丘 ルリ子(あさおか るりこ)
- 本名:浅井 信子(あさい のぶこ)
- 生年月日:1940年7月2日
- 年齢:84歳(2024年2月現在)
- 出身地:新京
- 血液型:A型
- 趣味:ガラス工芸品収集、ビーズ細工、麻雀
- 特技:クラシックバレエ
- 所属事務所:舞プロモーション(カラント)
SNS
- オフィシャルサイト URL:http://www.my-pro.co.jp/kalant/asaoka.html
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浅丘ルリ子さんは趣味からして、手先が器用なのかな?
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ご自身が身につけるものはもちろんのこと、舞台のときには販売もしていたそうよ!作品は今まで10000点以上も作ったそうだから、とても多彩ね!